最終更新日 2023年9月26日
●大正文学について 文学史を紐解くと、大正は15年という短い時代であったにも関わらず、文学の思潮としては大きなうねりが見られ、特筆すべき作品も多い。文芸誌ムセイオンでは、大正時代に発表された作品を年代順に紹介していきながら、大正文学作品が持つ独特な魅力に迫っていきたい。 | |
【大正文学作品】 | |
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●作品レビュー 『我等の一団と彼』(石川啄木/大正元年7〜9月) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 一 人が大勢集つてゐると、おのづから其の間に色分けが出来て来る――所謂党派といふものが生れる。これは何も珍らしいことではないが、私の此間までゐたT――新聞の社会記者の中にもそれがあつた。初めから主義とか、意見とかを立てゝ其の下に集つたといふでもなく、又誰もそんなものを立てようとする者もなかつたが、ただ何時からとなく五、六人の不平連がお互ひに近づいて、不思議に気が合つて、そして、一種の空気を作つて了つたのだ。 先づ繁々往来をする。遠慮のない話をする。内職の安著述の分け合ひをする。時々は誘ひ合つて、何處かに集まつて飲む。――それだけのことに過ぎないが、この何處かに集まつて飲む時が、恐らく我々の最も得意な、最も楽しい時だつた。気の置ける者はゐず、酒には弱し、直ぐもう調子よく酔うつて来て、勝手な熱を吹いては夜更かしをしたものだ。何の、彼のと言つて騒いでるうちには、屹度社中の噂が出る。すると誰かが、赤く充血した、其の癖何處かとろんとした眼で一座を見廻しながら、慷慨演説でもするやうな口調で、「我党の士は大いにやらにや可(い)かんぞ。」などと言ひ出す。何をやらにや可かんのか、他(はた)から聞いては一向解らないが、座中の者にはよく解つた。少くとも其の言葉の表してゐる感情だけは解つた。 ※この作品は「青空文庫」にて読むことができます。→「我等の一團と彼」(石川啄木) 石川啄木(1886-1912) | |
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『我一幕物』(森林太郎(鴎外)/大正元年8月) (レビュー未) 『我一幕物』(籾山書店/大正元年)収載作品 「プルムウラ」「玉篋兩浦嶼」「生田川」「靜」「日蓮聖人辻説法」「假面」「なのりそ」「團子坂」「さへづり」「影」「建築師」「長宗我部信親」 ※この作品集は「近代デジタルライブラリー」にて読むことができます。→『我一幕物』(森林太郎) 森鴎外(林太郎)(1862-1922) | |
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『家』(稲岡奴之助/大正元年8月) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 【壹】政略的結婚(せいりやくてきけつこん) 月(つき)の好(よ)い一夜(や)であつた。 午後(ごご)十時(じ)を過(す)ぎた寂寥(さびし)い向島(むかうじま)の堤(どて)を、言問團子(こととひだんご)の方(ほう)から手(て)を引合(ひきあ)ふやうにしながら、無言(むごん)で歩(ある)いて來(く)る若(わか)い男女(だんぢよ)があつた。 甘(あま)いやうな、人(ひと)を醉(ゑ)はすやうな強(つよ)い葉櫻(はざくら)の薫(かほ)りが、そよ/\と吹(ふ)く川風(かはかぜ)につれて、心(こゝろ)の底(そこ)まで浸込(しみこ)むやうに匂(にほ)ふた上汐時(あげしほどき)の河水(かはみづ)が岸(きし)の石垣(いしがき)を洗(あら)ふて、トブン、トブン、と緩(ゆる)い眠(ねむ)たいやうな音(おと)を立(た)てゝゐた、對岸(たいがん)の今出花川戸(いまではなかはど)邊(あた)りの家々(いへ/\)が、薄墨(うすずみ)で隈取(くまど)つたやうで、川下(かはしも)の方(はう)静(しづ)かな艪聲(ろせい)が聞(きこ)えた。 稲岡奴之助(1873-?) | |
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『正義派』(志賀直哉/大正元年9月) ある日の夕方、21〜22歳の母親に連れられた5歳くらいの女の子が電車に轢かれ亡くなった。 事故現場にはすぐに人だかりができ、ほどなく交番から巡査がやってきた。 そこに鉄道会社の監督も現れ、問題の運転手に事情を聴いた。 「電気ブレーキを掛けたには掛けたんだな?」 「掛けました」 つまり、女の子が急に飛び込んできたので急ブレーキをかけたが、間に合わず轢いてしまった。“過失より災難”だというのだ。 その言葉に、近くで事故の一部始終を目撃していた線路工夫たちが立ち上がった。 “初めは電車と女の子の間には距離があったので、その時にすぐにブレーキをかけていれば、女の子は死ぬことはなかった”と。 鉄道会社のおかげで職にありつけているという微妙な立場も省みず、正義を貫こうとする線路工夫たち。 つい先日、100人以上の犠牲者を出した鉄道事故があったが、もし著者が今も存命で、このニュースを見たとしたら、どんなコメントを述べるだろうか? (2005.4.29/菅井ジエラ) ※本誌内企画“志賀直哉を読む”より再掲。 志賀直哉(1883-1971) 詳細は本誌内企画“志賀直哉を読む”ページをご覧ください。 | |
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『夢』(相馬秦三/大正元年9月) その老医師はガランとした部屋の中で物思いに耽っていた。そのうちに急に可笑しくなってきて、とうとう噴き出してしまった。 というのも、その2週間ばかり前に、三男の結婚式の披露宴会場で起きたことを思い出してしまったからだ。 披露宴の席上、自分の前に運ばれた一片の鳥肉を食べようと、馴れないナイフ・フォークで格闘しているうちに、手が滑り、隣にいた花嫁の皿の上にそれが飛んでいってしまったのだ。 老医師には男女4人ずつ、計8人の子どもがいたが、彼らを育てることにだけ自分の歳月と全精力を注いでいかなければならなかった。 老医師は、自分の老後をどのように過ごそうか考えていた。そして思った。 “自分の閑散な老後を庭いぢりでもして暮らさう” “これがまあ自分の手近な事の中で一番清らかな且つ静かな事である” 家の裏にある畑地をつぶし、植木屋を呼び、人足を呼び、石屋を呼び、庭を拡げた。 “松林を作りたい” 小松を植え、芝生を敷きつめ、畑をつぶし、小松を植え、畑をつぶし、小松を植え…。 そんなことをしているうちに、小松はずいぶんと立派に成長し、一人前の松林になっていった。 「まだ誰にも口外したことはないが、松林の一番気に入った所を選んで、そこへ自分の墓をたてよう。真っ白の大理石で墓をたて、その下に心静かに休みたい。永久に」 それから又八九年経った。…… ある日、老医師は夢をみる。その後、幾度も彼を悩まし続ける、ある夢を…。 『夢と六月』(新潮社・新進作家叢書09/大正6年)所収 「地獄」「鞭」「夢」「六月」「ギプスの床」「田舎医師の子」 (2007.10.20/菅井ジエラ) (以下は作品の冒頭) 一 そとは嵐(あらし)である。高い梢(こずゑ)で枝と枝との騒がしくかち合ふ音が聞える。ばら/\と時折り窓をかすめて落葉が飛ぶ。だが、それ等は決して、老医師の静かな物思ひのさまたげにはならなかつた。天井の高い、ガランとした広い部屋の中の空気はヒヤ/\と可成(かなり)冷たかつたが、彼は大きな安楽椅子(あんらくいす)に身を深く埋めてゐたから、それも平気であつた。それに物思ひと云つても、それは彼のこれまでの忙はしい生活に附きまとうてゐた様な、そんな種類のものとは全く趣きを異にした極(きは)めて呑気(のんき)な、責任などと云ふものから全く離れたものであつた。 膝(ひざ)の上にきちんと手を重ねて、半ば眼を閉ぢてうつら/\と取とめもなく思ひに耽(ふけ)つてゐるうちに急に彼の口元から頬(ほゝ)のあたりへかけて軽い笑ひが浮んで来て、やがて眼がぱちつと開いた。そして暫時可笑(をか)しさを口の中にこらへて居たが、こらへ兼ねてとう/\噴(ふ)き出して仕舞つた。 それはかうである。ついこの二週間ばかり前のはなし、自分の第三の結婚式に臨む為めに上京して、その結婚披露の饗宴(きやうえん)の卓上での出来事、――それが、今何かの関係からふと頭の中に浮んで来たのである。 相馬秦三(1885-1952) | |
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『計画』(平出修/大正元年9月) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 「昨日大川君から来たうちから、例の者を送つてやつて下さい。」亨一(かういち)は何の気なしに女に云つた。畳に頬杖(ほほづえ)して、謄写版の小冊子に読み入つて居たすず子は、顔をあげて男の方を見た。云ひかけられた詞の意味がすぐに了解しにくかつた。 「静岡へですよ。」男は重ねて云つた。女はこの二度目の詞(ことば)の出ないうちに、男が何を云ふのであるかを会得して居た。「さうですか。」と云はうとしたが、男の詞の方が幾十秒時間か早かつたので、恰(あたか)も自分の云はうとした上を、男が押しかぶせて来たやうな心持に聞取れた。それ丈け男の詞がいかつく女の耳に響いた。不愉快さが一時に心頭に上つて来た。 「ああ、それは私の為事(しごと)の一つでしたわねえ。貴方に吩付(いひつ)けられた。」女は居住まひを直して男の真向(まむき)になつた。 「そして残酷な……。」と云ひ足して女は微(かすか)に笑つた。頬のあたりにいくらか血の気が上つて、笑つたあとの眼の中には暗い影が漂つて居る。 「どうしたと云ふのです。」亨一は著述の筆を措いて女の詞を遮つた。 ※幸徳秋水と管野スガをモデルにして描いた作品。 ※この作品は「青空文庫」にて読むことができます。→「計画」(平出修) 平出修(1878-1914) | |
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『秋子の命』(米光関月/大正元年9月) (レビュー未/以下は作品の冒頭) (一) 大晦日(おほみそか)の大通(おほどほ)りは今恰度(いまちやうど)暮(く)れた計(ばか)りの處(ところ)でありました。諸方(しよはう)での賣出(うりだ)し提灯(ちやうちん)が如何(いか)に景氣(けいき)可(よ)く點(とも)されまして、殊(こと)に勸工場(かんこうば)では例(れい)の景品(けいひん)籤引(くぢびき)で熾(さか)んに人(ひと)を寄(よ)せて居(い)ました。箒(はふき)を引當(ひきあて)て笑(わら)ひ乍(なが)ら歸(か)へる人(ひと)やら、八角(はつかく)時計(どけい)を引當(ひきあ)てゝニコ/\爲乍(しなが)ら走(はし)つて行(ゆ)く人(ひと)、それ等(ら)の人々(ひと/\)を取卷(とりま)いて珍(めづ)らしさうに眺(なが)めて居(い)る人群(ひとだかり)はK山(くろやま)の様(やう)であります。この人群(ひとだかり)の中(なか)に恐(おそ)ろしく扮装(みなり)の汚(きたな)い者(もの)が二人(ふたり)交(まじ)つて居(お)りました。 米光関月(1874-1915) | |
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『岩石の間』(島崎藤村/大正元年9月) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 懐古園の城門に近く、桑畠(くわばたけ)の石垣の側で、桜井先生は正木大尉に逢った。二人は塾の方で毎朝合せている顔を合せた。 大尉は塾の小使に雇ってある男を尋ね顔に、 「音(おと)はどうしましたろう」 「中棚の方でしょうよ」桜井先生が答えた。 中棚とはそこから数町ほど離れた谷間(たにあい)で、新たに小さな鉱泉の見つかったところだ。 浅間の麓(ふもと)に添うた傾斜の地勢は、あだかも人工で掘割られたように、小諸城址(こもろじょうし)の附近で幾つかの深い谷を成している。谷の一つの浅い部分は耕されて旧士族地を取囲(とりま)いているが、その桑畠や竹薮(たけやぶ)を背(うしろ)にしたところに桜井先生の住居(すまい)があった。先生はエナアゼチックな手を振って、大尉と一緒に松林の多い谷間の方へ長大な体躯(からだ)を運んで行った。 谷々は緑葉に包まれていた。二人は高い崖(がけ)の下道に添うて、耕地のある岡の上へ出た。起伏する地の波はその辺で赤土まじりの崖に成って、更に河原続きの谷底の方へ落ちている。崖の中腹には、小使の音吉が弟を連れて来て、道をつくるやら石塊(いしころ)を片附けるやらしていた。音吉は根が百姓で、小使をするかたわら小作を作るほどの男だ。その弟も屈強な若い百姓だ。 ※この作品は「青空文庫」にて読むことができます。→「岩石の間」(島崎藤村) 島崎藤村(1872-1943) | |
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『兎』(長与善郎/大正元年10月) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 其夏の八月末に自分は西那須野にある親戚の開墾地に行つて居た。其處には嫁に行つた自分の姉と、姉の一人子でお竹坊と云ふ其時分わづか九になつて居た女の子と、正助と云ふ向うの家の若い男とそれに二三人の下男や婢が居た。 自分は未だ中學の二三年生で十五六の頃であつた。夏と云ふものは海岸に居て、印度人の様に皮膚の色揚をし、もく/\した綿の様な雲を、白くくづれる波の上から眺めて暮すものと、思ひ込んで居た自分は、此茫々とした原野の中の開墾地に來て全く異境の感を起した。原を横切る凸凹した軟かい轍路(みち)は何處迄續くかと思はせ。其兩側には赤松の大木が處々にによき/\立つて、遠くの方に低く那須嶽やら鹽原の方の山が僅か許り眺めらるゝ處に來て、自分は日本にも恁んな廣々した陸地の景が見らるるのかと珍らしく思つた。 『結婚の前』(新潮社・新進作家叢書06/大正6年)所収 「結婚の前」「Yの幻影」「生活の一片」「亡き姉に」「兎」 長与(長與)善郎(1888-1961) | |
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『砂丘』(長田幹彦/大正元年) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 一 その夏(なつ)は別(べつ)して暑氣(しよき)が酷(きび)しかつた。 それでなくてさへひどく夏(なつ)まけをする私(わたし)は、丁度(ちやうど)學期試驗(がくきしけん)が濟(す)むとすぐから可成(かな)り重症(ぢゆうしやう)の氣管支炎(きくわんしえん)に冒(をか)されて、殆(ほと)んど三週間(さんしうかん)餘(あま)りも病床(びやうしやう)に就(つ)いてゐた後(のち)だつたので、その暑氣(しよき)がひどく體(からだ)にこたへて、折角(せつかく)癒(なほ)りかけてゐた衰弱(すゐじやく)がみるみるうちに又(また)後戻(あともど)りをしてしまつた。食慾(しよくよく)はまるでなくなつてしまふ、五體(ごたい)には激(はげ)しい倦怠(けんたい)を覺(おぼ)える、毎日毎日(まいにち/\)蠶蟲(いもむし)のやうに書齋(しよさい)にごろ/\寝(ね)そべつたきりで、冷(つめ)たくなつた額(ひたひ)に滲(にじ)み出(で)る生汗(なまあせ)を拭(ふ)きながら、頻(しき)りに嘆息(ためいき)ばかりついてゐた。醫師(いし)だつた私(わたし)の父親(てゝおや)はそれをみるとひどく心(こころ)を痛(いた)めて、平常(ふだん)から脾弱(ひよわ)い體(からだ)だから、此際(このさい)餘病(よびやう)でも惹起(ひきおこ)しては一大事(いちだいじ)だと云(い)つて、例年(れいねん)よりも早(はや)く何處(どこ)か風(かぜ)の凉(すず)しい海岸(かいがん)へ轉地療養(てんちれうやう)旁々(かた/゛\)避暑(ひしよ)にやつて呉(く)れることになつた。 『尼僧』(籾山書店/大正元年12月)所収 「尼僧」「砂丘」「海邊の町」 長田幹彦(1887-1964) | |
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『霰ふる』(泉鏡花/大正元年11月) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 一 若いのと、少し年の上なると…… この二人(ふたり)の婦人(おんな)は、民也(たみや)のためには宿世(すぐせ)からの縁(えん)と見える。ふとした時、思いも懸けない処へ、夢のように姿を露(あら)わす―― ここで、夢のように、と云うものの、実際はそれが夢だった事もないではない。けれども、夢の方は、また……と思うだけで、取り留めもなく、すぐに陽炎(かげろう)の乱るる如く、記憶の裡(うち)から乱れて行く。 しかし目前(まのあたり)、歴然(ありあり)とその二人を見たのは、何時(いつ)になっても忘れぬ。峰を視(なが)めて、山の端(は)に彳(たたず)んだ時もあり、岸づたいに川船に乗って船頭もなしに流れて行くのを見たり、揃って、すっと抜けて、二人が床の間の柱から出て来た事もある。 民也は九(ここの)ツ……十歳(とお)ばかりの時に、はじめて知って、三十を越すまでに、四度(よたび)か五度(いつたび)は確(たしか)に逢った。 これだと、随分中絶(なかだ)えして、久しいようではあるけれども、自分には、さまでたまさかのようには思えぬ。人は我が身体(からだ)の一部分を、何年にも見ないで済ます場合が多いから……姿見に向わなければ、顔にも逢わないと同一(おなじ)かも知れぬ。 で、見なくっても、逢わないでも、忘れもせねば思出(おもいだ)すまでもなく、何時(いつ)も身に着いていると同様に、二個(ふたつ)、二人の姿もまた、十年見なかろうが、逢わなかろうが、そんなに間(あいだ)を隔てたとは考えない。 泉鏡花(1873-1939) | |
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『幻滅の一日』(島村抱月/大正元年11月) (レビュー未/以下は作品の冒頭) (一) 奈良(なら)の大佛(だいぶつ)、奈良漬(ならづけ)、奈良人形(ならにんげふ)と名物(めいぶつ)の多(おほ)い中(なか)には、今(いま)流行(はや)つてゐる浪花節(なにはぶし)の奈良丸(ならまる)も勿論(もちろん)土地(とち)の誇(ほこ)りの一(ひと)つだと云ふ。こゝの雑誌店(ざつしてん)などを覗(のぞ)くと、奈良丸(ならまる)講演集(かうえんしふ)といふのが目立(めだ)ち易(やす)い場所(ばしよ)に飾(かざ)つてあつて、同人(どうにん)の語物(かたりもの)を速記(そつぎ)した活版刷(くわつぱんずり)の小冊子(せうさつし)である、之(これ)れは京阪(けうはん)の書店(しよてん)にも折々(をり/\)出(で)てゐる。そして店番(みせばん)の小僧(こざう)などが、暇(ひま)のときには、その中(うち)の一節(せつ)を、いきみ聲(ごゑ)を殺(ころ)して朗誦(らうしやう)してゐることがある。 島村抱月(1871-1918) | |
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『艦底』(荒畑寒村/大正元年12月) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 一 春頃、進水式を挙げた二等巡洋艦××号の艤装工作が、夏に入ると急に忙がしくなり、職工等は寄ると触ると、近い中に戦争が始まると、物の怪でも近づくやうに噂し合つた。黒い羅紗服を着た組長や、黒服青ズボンの伍長等は、日清戦争時分、乗組んだ工作船の事を思ひ出して、食後の休憩時間には、必ず上甲板に集まつて、工作船の利益と興味とを語り合つた。 昼飯後、上甲板に費やす十五分か二十分は、艦底の格納庫の艤装に廻された安田には、何ものにも替へ難い楽しい時間だつた。上甲板には、マストと煙筒の立つべき大きな穴が、幾つか開いて居る限りで、まだ砲塔も、艦橋も、欄干もなく、敷き詰めた木材は泥に塗れて、黒いチヤンは汚らしく流れて固まつて居た。 安田は、烈しい日光を遮ぎる物蔭さへも無い、その上甲板に横たはつて、痺れる脚をさすりながら艦長室や士官室の艤装に廻つて居る連中の話に聞き入つて居た。 ※著作権が存続中です。問題があれば削除します。(菅井ジエラ) 荒畑寒村(1887-1981) | |
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『悪魔』(葛西善蔵/大正元年12月) 良吉は仲間たちと一緒に、ある儲からない雑誌をやっている。 毎月末になると、下町の印刷所の二階で校正作業をするのだが、 ここの“ヘンな”汚さが気に入って、毎月ここに来るのを心待ちにしているのだった。 …その日も良吉は印刷所の二階に来ていた。 二階の窓から下を見やると、いろいろな人間が往来を通るのが見える。 その光景を眺めていると、良吉の魂はだんだん鬱いでいき、つまらなくなってくる。 それは彼が“悪魔の舌”と呼んでいる一種の気持ちで、 こうした頽廃の発作は「悪夢のように、意地わるく、襲いつかまえ」、「ひとりでに、乾きを覚えてくる」のだった。 この作品は、以下のフレーズで始まる。 “みんなは生甲斐のありさうな顔をしてゐる。…良吉には、それがどうしても解らないのである。” 新潮文庫版『葛西善蔵集』巻末の山本健吉による解説によれば、この作品が書かれたのは、 葛西善蔵が「生活苦と文学精進の一筋心とから、妻子を実家に帰して、薄汚い下宿屋の一室に籠り、東北の雪の中で飲習った酒に憂ひを遣ってゐた」頃だという。 葛西善蔵、26歳。 今の時代に即して言えば、「キビシイ」の一言に尽きる。 (2007.10.6/菅井ジエラ) 葛西善蔵(1887-1928) 青森県弘前市出身。大正元年に処女作である「哀しき父」を発表。その後、数々の“私小説”を著している。代表作に「子をつれて」「椎の若葉」など。 | |
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『行人』(夏目漱石/大正元年12月〜2年11月) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 友達 一 梅田(うめだ)の停車場(ステーション)を下(お)りるや否(いな)や自分は母からいいつけられた通り、すぐ俥(くるま)を雇(やと)って岡田(おかだ)の家に馳(か)けさせた。岡田は母方の遠縁に当る男であった。自分は彼がはたして母の何に当るかを知らずにただ疎(うと)い親類とばかり覚えていた。 大阪へ下りるとすぐ彼を訪(と)うたのには理由があった。自分はここへ来る一週間前ある友達と約束をして、今から十日以内に阪地(はんち)で落ち合おう、そうしていっしょに高野(こうや)登りをやろう、もし時日(じじつ)が許すなら、伊勢から名古屋へ廻(まわ)ろう、と取りきめた時、どっちも指定すべき場所をもたないので、自分はつい岡田の氏名と住所を自分の友達に告げたのである。 「じゃ大阪へ着き次第、そこへ電話をかければ君のいるかいないかは、すぐ分るんだね」と友達は別れるとき念を押した。岡田が電話をもっているかどうか、そこは自分にもはなはだ危(あや)しかったので、もし電話がなかったら、電信でも郵便でも好(い)いから、すぐ出してくれるように頼んでおいた。友達は甲州線(こうしゅうせん)で諏訪(すわ)まで行って、それから引返して木曾(きそ)を通った後(あと)、大阪へ出る計画であった。自分は東海道を一息(ひといき)に京都まで来て、そこで四五日用足(ようたし)かたがた逗留(とうりゅう)してから、同じ大阪の地を踏む考えであった。 ※この作品は「青空文庫」にて読むことができます。→『行人』(夏目漱石) 夏目漱石(1867-1916) | |
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『十字街』(森田草平/大正元年) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 一 町から村の方へ一條の街道がつゞく。 或日の真昼間、此街道の上をひつそりとしたお葬ひの行列が通つた。白張の提灯が一対と、位牌と棺と、村の坊さんの外には、男女合せて七八人しか送る者がない。只、其後から近 所の子供だの子守だのが、薙刀草履に白い塵埃を蹴立てながら、ぞろ/\と随いて行く。中にはばた/\と駈出して、前の行列を追越し相にしながら、二たび路傍に立つて待合せて居るのもある。最後に一人通りがゝりの旅人らしいのが稍離れて随いて行く。 森田草平(1881-1949) | |
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『哀しき父』(葛西善藏/大正元年) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 一 彼はまたいつとなくだん/\と場末へ追ひ込まれてゐた。 四月の末であつた。空にはもや/\と靄(もや)のやうな雲がつまつて、日光がチカ/\桜の青葉に降りそゝいで、雀(すゞめ)の子がヂユク/\啼(な)きくさつてゐた。どこかで朝から晩まで地形(ぢぎやう)ならしのヤートコセが始まつてゐた……。 彼は疲れて、青い顔をして、眼色は病んだ獣(けもの)のやうに鈍く光つてゐる。不眠の夜が続く。ぢつとしてゐても動悸(どうき)がひどく感じられて鎮(しづ)めようとすると、尚(な)ほ襲はれたやうに激しくなつて行くのであつた。 今度の下宿は、小官吏の後家さんでもあらうと思はれる四十五六の上(かみ)さんが、ゐなか者の女中相手につましくやつてゐるのであつた。樹木の多い場末の、軒の低い平家建の薄暗くじめ/\した小さな家であつた。彼の所有物と云つては、夜具と、机と、何にもはひつてない桐(きり)の小箪笥(こだんす)だけである。桐の小箪笥だけが、彼の永い貧乏な生活の間に売残された、たつたひとつの哀(かな)しい思ひ出の物なのであつた。 彼は剥(は)げた一閑張(いつかんばり)の小机を、竹垣ごしに狭い通りに向いた窓際(まどぎは)に据(す)ゑた。その低い、朽(くさ)つて白く黴(かび)の生えた窓庇(まどびさし)とすれ/\に、育ちのわるい梧桐(あをぎり)がひよろ/\と植つてゐる。そして黒い毛虫がひとつ、毎日その幹をはひ下りたり、まだ延び切らない葉裏を歩いたりしてゐるのであつたが、孤独な引込み勝な彼はいつかその毛虫に注意させられるやうになつてゐた。そして常にこまかい物事に対しても、ある宿命的な暗示をおもふことに慣らされて居る彼には、その毛虫の動静で自然と天候の変化が予想されるやうにも思はれて行くのであつた。 孤独な彼の生活はどこへ行つても変りなく、淋(さび)しく、なやましくあつた。そしてまた彼はひとりの哀しき父なのであつた。哀しき父――彼は斯(か)う自分を呼んでゐる。 葛西善蔵(1887-1928) 青森県弘前市出身。大正元年に処女作である「哀しき父」を発表。その後、数々の“私小説”を著している。代表作に「子をつれて」「椎の若葉」など。 | |
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『面影』(後藤末雄/大正元年) (レビュー未/以下は作品の冒頭) どんな人(ひと)の生涯(しやうがい)にも、きつと面白(おもしろ)い話(はなし)や、悲(かな)しい話(はなし)が充(み)ちてゐる。その話(はなし)を家(うち)といふ箱(はこ)に残(のこ)してゆくと誰(だれ)かが言(い)つた。かう考(かんが)へて下町(したまち)の店蔵(みせぐら)を眺(ながめ)ると、ことさら暖簾(のれん)の古(ふる)い大店(おほだな)は、「話(はなし)のお庫(くら)」とも言(い)ひたくなる。頽(くづ)れた扉(とびら)、はげた上塗(うはぬり)、赤(あか)さびた折釘(をれくぎ)なぞは、中世紀(ちうせいき)のお伽噺(とぎばなし)にもありさうな妖女(えうぢよ)や悪魔(あくま)の棲家(すみか)に似(に)かよつて、いつも時代(じだい)の碑塔(モニーマン)といふ言葉(ことば)を思(おも)ひだす。派手(はで)ずきな昔(むかし)の人(ひと)が分限者(ぶんげんもの)とか長者(ちやうじや)とか言(い)はれたい心(こゝろ)から、富(とみ)に飽(あ)かして造(つく)りあげた店蔵(みせぐら)は、その頃(ころ)から今(いま)まで長(なが)い/\暦(こよみ)を改(あらた)めて、激(はげ)しい時勢(じせい)の推移(すゐい)さへ見(み)てきた。 後藤末雄(1886-1967) 『素顔』(浜口書店/大正3年2月)所収 「素顔」「推移」「ぬか雨」「鍵」「面影」「死繪」 | |
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『絵具箱』(岡田八千代/大正元年) (レビュー未/以下は実兄の小山内薫による序の冒頭) 序 小説家(せうせつか)としては、妹(いもうと)は私(わたし)より先輩(せんぱい)である。妹(いもうと)が初(はじ)めて小説(せうせつ)を書(か)いた時(とき)、私(わたし)はまだ「讀(よ)んで」ばかりゐた。 妹(いもうと)が初(はじ)めて小説(せうせつ)らしい物(もの)を私(わたし)に見(み)せた時(とき)、私(わたし)はその餘(あま)りに意外(いぐわい)なのに驚(おどろ)いた。「妹(いもうと)が小説(せうせつ)を書(か)く」といふ事(こと)が唯(たゞ)意外(いぐわい)であつたばかりでなく、妹(いもうと)が小説(せうせつ)を書(か)くやうな準備(じゆんび)を何處(どこ)で何時(いつ)したか、それが私(わたし)には意外(いぐわい)だつたのである。 岡田八千代(1883-1962) 劇作家の小山内薫(1881-1928)の実妹。 | |
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『杏の落ちる音』(高浜虚子/大正2年1月) (レビュー未/以下は作品の冒頭) (一) 稽古日(けいこび)は二七と極(きま)つてゐた。今日(けふ)は其(その)七の日(ひ)に當(あた)る六月(ぐわつ)の十七日(にち)なので、雨(あめ)の降(ふ)る中(なか)をぽつ/\稽古(けいこ)に來(き)た。 此頃(このごろ)の雨續(あめつゞ)きに、一間程(けんほど)も深(ふか)さのある前(まへ)の溝(みぞ)には大分(だいぶ)水(みづ)が出(で)てゐた。板橋(いたばし)の上(うへ)に立(た)つて傘(かさ)をつぼめて狭(せま)い格子戸(かうしど)をくゞる時(とき)には誰(たれ)も少(すこ)しづゝ濡(ぬ)れた。師匠(ししやう)のお紫津(しづ)の流石(さすが)に意氣(いき)な長(なが)い頸にもはら/\と落(お)ちた。 お紫津(しづ)は傘(かさ)をつぼめた儘(まま)で。素足(すあし)に穿(は)いた輕(かる)い小(ちひ)さい足駄(あしだ)で飛石(とびいし)の上(うへ)に音(おと)を立(た)てた。 高浜虚子(1874-1959) | |
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『乞食の夫婦』(江馬修/大正2年) 彼女の恋人は、2人の恋のはじめに、幸福を暗示するような経験した。その出来事とは…。 彼が彼女に初めて手紙を書いて、その返事を待っていた頃、 彼は、朝から××の森の中に住んでいる青木さんと2人でたんぼ道を大森の方へと歩いていた。 “林を添ったり丘を越えたりする”道を通り、 たんぼ道の十字路のところにくると、ひょっこり乞食の男女に出くわした。 “着物の面影も無いまでにずたずたに裂け破れた襤褸を下げた男の乞食が、同じやうな女の乞食の手を曳いてゐる。” 女は何か重い病気を患っているようで、男に手を曳かれながら縋るように付いていく。 その光景を見た彼は、“或る強い感じの胸に溢れるのを覚えた。” その後、しばらく歩き20分ほど経って、古い松並木の陰を歩きながら、彼は青木さんにさっきの乞食の2人連れのことを切り出した。 「僕は何だか変な気がして…」 「どんな気がしたい」 「さあ、どうも感じを言ひ表はせないのです。あなたはどんな気がしました」 「僕は羨ましかつた!」 ………。 “わが最愛の者よ。お前は是を読んでどんな気持ちがするか。……” (これは或る女が彼女の恋人から受取った数あるラヴ・レタアの中のひとつである。──作者) 『蛇つかひ』(春陽堂・現代文藝叢書第35編/大正3年3月)所収 「蛇つかひ」「乞食の夫婦」「餌食」「蔓」「幼い子」 (2008.9.18/菅井ジエラ) 江馬修(1889-1975) | |
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『逆徒』(平出修/大正2年) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 判決の理由は長い長いものであつた。それもその筈であつた。之を約(つづ)めてしまへば僅か四人か五人かの犯罪事案である。共謀で或る一つの目的に向つて計画した事案と見るならば、むしろこの少数に対する裁判と、その余の多数者に対する裁判とを別々に処理するのが適当であつたかもしれない。否その如く引離すのが事実の真実を闡明(せんめい)にし得たのであつたらう。三十人に近い被告が、ばら/\になつて思念し行動した個々の犯罪事実を連絡のあるもの、統一のあるものにして了はうとするには、どこにか総括すべき楔点を先づ看出さなければならない。最も近い事実を基点とし、逆に溯りて其関係を繹(たづ)ね系統を調べて、進んで行つた結果は、二ヶ年も前の或る出来事に一切の事案の発端を結びつけなければならなかつた。首謀者は秋山亨一であると最初に認定を置いて、彼が九州の某、紀州の某に或ることを囁いたのがそも/\の起因である。それから某は九州に某は大阪及紀州に、亨一は又被告人中に唯一人交つて居る婦人の真野すゞ子に、それから一切の被告に行き亘つて話合したと云ふ荒筋が出来上つた。一寸聞けば全くかけ放れた事実であるかの様にも思はれる極めて遠い事実から段々近く狭く限つて来て、刑法の適用をなし得る程度に拵上げ、取纏め引きしめて来るまでの叙述は、あの窮屈な文章の作成と共に、どれ丈けの骨折が費されたであらう。想ひやられる事であつた。 ※明治天皇暗殺計画(騒動)に端を発した大逆事件(1910年/明治43年)の裁判を題材にした作品。作者の平出修は、この裁判の弁護人を務めた。 平出修(1878-1914) | |
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『黒髪』(遅塚麗水/大正2年) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 一 小(ちひ)さな鈴(すゞ) 鎌倉(かまくら)の尼寺(あまでら)海鏡庵(かいきやうあん)の妙貞尼(めうていに)は、今(いま)小庭(こには)を前(まへ)にした一室(しつ)で、木蘭色(もくらんじき)の法衣(ころも)を縫(ぬ)って居(ゐ)る、 昨夜(ゆふべ)の梅雨明(つゆあ)けの大雨(おほあめ)で、建長寺(けんちやうじ)の松(まつ)の木(き)にお雷樣(らいさま)が降(さが)った、今朝(けさ)からは慌(あわたゞ)しく夏(なつ)が來(き)て、潮(うしお)の色(いろ)も紺(こん)になり、町(まち)の色(いろ)も赭(あか)くなり、風(かぜ)の色(いろ)も(あを)くなり、人(ひと)の着物(きもの)の色(いろ)も白(しろ)くなつた、湘南(しやうなん)の町(まち)や、村(むら)や、濱(はま)や、磯(いそ)には、肌(はだ)がまだ生(なま)ッ白(しろ)い人(ひと)が、潮浴(しょあ)びにちらほら出(で)る、春(はる)から梅雨(つゆ)にかけて閉(しめ)られ通(どほ)しの別荘(べつさう)の門(もん)は啓(ひら)かれ、避暑客(ひしよかく)當込(あてこ)みの乾浄屋(しもたや)は障子(しやうじ)や襖子(ふすま)の張(は)り換(か)へで忙(いそが)しく、中流(ちうりう)どこの家族(かぞく)相手(あひて)のお寺(てら)では、書院(しよゐん)に區劃(しきり)の鴫居鴨居(しきゐかもゐ)を入(い)れ初(はじ)める、松風(まつかぜ)、蝉(せみ)の聲(こゑ)、遠(とほ)い潮鳴(しほな)り、磯(いそ)の香(かを)りは、縹(あを)い(わか)い鮮(あざ)やかな夏(なつ)を齎(もたら)して一帯(たい)に賑(にぎは)しい、 遅塚麗水(ちづかれいすい)(1867-1942) 幼なじみの幸田露伴のすすめで、小説を書き始める。日清戦争では従軍記者として活躍。代表作に、日清戦争従軍の記録『陣中日記』など。 | |
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『范の犯罪』(志賀直哉/大正2年10月) 范という名の奇術師が、数メートル離れた妻に向かって、体の輪郭を描くようにナイフを投げるという芸を披露していた時、妻の首にナイフがささってしまい、彼女はその場で即死。范は果たして殺意を持っていたのか、それとも単なる事故だったのかという話。 裁判官の事情聴取という形で話は進められるが、登場人物の心情表現がすばらしく、一級の推理小説を読んだような読後感がある。初出『新青年』と言われても納得してしまいそうな内容だ。同時代の作家である谷崎潤一郎や佐藤春夫らは数多くの推理(犯罪)小説を書いており、特に谷崎は私も好んで読んでいるが、この志賀直哉の作品は、それらの作品群と比べても遜色ない。「小説の神様」が犯罪を題材にして書くと、こんな作品になるという典型のような感じがする。 (2005.4.29/菅井ジエラ) ※本誌内企画“志賀直哉を読む”より再掲。 志賀直哉(1883-1971) 詳細は本誌内企画“志賀直哉を読む”ページをご覧ください。 | |
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『女の一生』(森田草平/大正2年) (レビュー未) 『女の一生』(春陽堂/大正2年5月)所収 「狂言」「小狗」「妾」「留守の間」「戀愛の後」「女の一生」「岡崎日記」「女の良人」 森田草平(1881-1949) | |
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『赤い指輪』(小川未明/大正2年) (レビュー未) 『底の社會へ』(岡村書店/大正3年・序文:相馬御風)所収 「街の二人」「底の社會へ」「露臺」「下の街」「朽ちる體」「愚弄」「昔の敵」「殺人の動機」「死の幻影」「淋しき笑ひ」「三月」「寂寥の人」「春になるまで」「落日」「虐待」「眼前の犠牲」「残雪」「赤い指輪」「無智」「橋」「乞食の児」「青春の死」「夜半まで」「母」「怨まれて」「足に」「都會」 小川未明(1882-1961) | |
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『青春の死』(小川未明/大正2年) (レビュー未) 『底の社會へ』(岡村書店/大正3年・序文:相馬御風)所収 「街の二人」「底の社會へ」「露臺」「下の街」「朽ちる體」「愚弄」「昔の敵」「殺人の動機」「死の幻影」「淋しき笑ひ」「三月」「寂寥の人」「春になるまで」「落日」「虐待」「眼前の犠牲」「残雪」「赤い指輪」「無智」「橋」「乞食の児」「青春の死」「夜半まで」「母」「怨まれて」「足に」「都會」 小川未明(1882-1961) | |
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『乞食の児』(小川未明/大正2年) (レビュー未) 『底の社會へ』(岡村書店/大正3年・序文:相馬御風)所収 「街の二人」「底の社會へ」「露臺」「下の街」「朽ちる體」「愚弄」「昔の敵」「殺人の動機」「死の幻影」「淋しき笑ひ」「三月」「寂寥の人」「春になるまで」「落日」「虐待」「眼前の犠牲」「残雪」「赤い指輪」「無智」「橋」「乞食の児」「青春の死」「夜半まで」「母」「怨まれて」「足に」「都會」 小川未明(1882-1961) | |
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『芋掘り』(長塚節/大正2年) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 一 小春の日光は岡の畑一杯に射しかけて居る。岡は田と櫟林と鬼怒川の土手とで圍まれて他の一方は村から村へ通ふ街道へおりる。田は岡に添うて狹く連つて居る。田甫を越して竹藪交りの村の林が田に添うて延びて居る。 竹藪の間から草家がぽつ/\と隱見する。箒草を中途から伐り放したやうに枝を擴げた欅の木がそこにもこゝにもすく/\と突つ立つて居る。田にはもう掛稻は稀で稻を掛けた竹の「オダ」がまだ外(はづ)されずに立つて居る。 「オダ」には黄昏に鴫でも來て止る位のことだらう、見るから淋しげである。鬼怒川の土手には篠が一杯に繁つて居るので近くの水は其蔭に隱れて見えぬ。のぼる白帆は篠の梢に半分だけ見えて然かも大きい。 土手の篠を越えて水がしら/\と見えるあたりはもう遙の上流である。だから篠の梢を離れて高瀬船の全形が見える頃は白帆は遙かに小さく蹙まつて居る。土手の篠の上には對岸の松林が連つて見える。 更に其上には筑波山が一脚を張つて他の一脚を上流まで延ばして聳えて居る。小春の筑波山は常磐木の部分を除いては赭く焦げたやうである。其赭い頂上に點を打つたやうに觀測所の建物がぽつちりと白く見える。 稍不透明な空氣は尚針の尖でつゝくやうに其白い一點を際立つて眼に映ぜしめる。櫟の林は此の狹く連つて居る田と鬼怒川との間をつないで横につゞいて居る。田も遙かのさきは櫟林に隱れて、鬼怒川も上流はいつか櫟林に見えなくなる。 櫟の木はびつしりと赭い葉がくつゝいて居る。岡の畑は向へいくらか傾斜をなして居るので中央に立つて見ると櫟の林は半隱れて低い土手のやうに連つて見える。林の上には兩毛の山々が雪を戴いてそれがぼんやりと白い。 此の如き周圍を有して岡の畑は朗かに晴れて居るのである。 長塚節(1879-1915) | |
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『木乃伊の口紅』(田村俊子/大正2年4月) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 一 淋しい風が吹いて來て、一本圖拔(づぬ)けて背の高い冠のやうな檜葉(ひば)の突先(とつさき)がひよろ/\と風に搖られた。一月初めの夕暮れの空は薄黄色を含んだ濁つた色に曇つて、ペンで描いたやうな裸の梢の間から青磁色をした五重の塔の屋根が現はれてゐた。 みのるは今朝早く何所(どこ)と云ふ當てもなく仕事を探しに出た良人の行先を思ひながら、ふところ手をした儘、二階の窓に立つて空を眺めてゐた。横手の壁に汚點(しみ)のやうな長方形の薄い夕日がぼうと射してゐたが、何時の間にかそれも失くなつて、外は薄暗の力が端から端へと物を消していつた。 みのるは夕飯に豆腐を買ふ事を忘れまいと思ひながら下へおりて行くのが物憂くつて、豆腐屋の呼笛の音を聞きながら、二三人家の前を通つて行つた事に氣が付いてゐたけれども下りて行かなかつた。そうして夕暮の空を眺めてゐた。 田村俊子(1884-1945) | |
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『新らしき女の罪』(青木白葉/大正2年5月) (レビュー未/以下は青盛堂書店・青木白葉著『新らしき女の罪』の巻初に附された、著者によるはしがき) はしがき 虚榮(きよえい)に囚(とら)はれ、虚飾(きよしよく)に溺(おぼ)れ、終(つひ)には所夫(おつと)を棄(すて)て、子(こ)を捨(すて)て、世(よ)を欺(あざむ)きて華冑(くわちう)の夫人(ふじん)となり、その身(み)は暖(あたゝ)かき春(はる)の夢(ゆめ)に醉(ゑ)ひ、歡樂(くわんらく)の巷(ちまた)に魔醉(ますゐ)されつゝ日(ひ)を送(おく)れど、哀(あは)れや見捨(みすて)られたる失意(しつい)の所夫(おつと)は希望(きぼう)も光明(くわうめう)も失(う)せて氣(き)も狂(くる)はんばかり、子(こ)はまた孤兒院(こじゐん)の風寒(かぜさむ)き夕(ゆふべ)を冷(つめ)たき思(おも)ひに沈(しづ)む、朗々(らう/\)として盡(つ)きざる一卷(くわん)の悲史(ひし)は一讀(どく)一句(く)涙(なみだ)あり血(ち)あり、これ女(をんな)の罪(つみ)か、社會(しやくかい)の罪(つみ)か、世(よ)には戀(こひ)より犯(おか)す幾多(いくた)の罪(つみ)もあれど、蓋(けだ)し虚榮(きよえい)虚僞(きよぎ)に心(こゝろ)昏(くら)んで犯(おか)す罪(つみ)は、吾人(ごじん)の心血(しんけつ)を寒(さむ)からしむ。本書(ほんしよ)は即(すなは)ち近來(きんらい)新(あた)きし女(をんな)の罪(つみ)と稱(しよう)する現代(げんだい)女性(ぢよせい)の末路(まつろ)を描(ゑが)き、波瀾重疊(はらんちようでふ)たる悲劇(ひげき)は深刻(しんこく)なる描寫(べうしや)と赤裸々(せきらゝ)たる奇警(きけい)の觀察(くわんさつ)は、什麼(いか)に讀者(どくしや)の眼前(がんぜん)に躍動(やくどう)たらしむかを見(み)よ。 著者識 青木白葉(?-?) | |
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『意地』(森林太郎(鴎外)/大正2年6月) (レビュー未) 『意地』(籾山書店/大正2年)収載作品 「阿部一族」「興津彌五右衞門の遺書」「左橋甚五郎」 ※この作品集は「近代デジタルライブラリー」にて読むことができます。→『意地』(森林太郎) 森鴎外(林太郎)(1862-1922) | |
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『爛』(徳田秋声/大正2年7月) (レビュー未/以下は作品の冒頭) (一) 最初におかれた下谷の家から、お増が麹町の方の妾宅へ移つたのはその年の秋の頃であつた。 自由な體になつてから、初めて落著いた下谷の家では、お増は春の末から暑い夏の三月を過した。 そこは賑やかな廣小路の通りから、少し裏へ入つた或路次のなかの小さい平家(ひらや)で、つい其向前(むかふまへ)には男の知合の家があつた。 出て來たばかりのお増は、そんなに著るものも持つてゐなかつた。遊里(さと)の風がしみてゐたから、口の利き方や、起居(たちゐ)などにも落著がなかつた。廣い大きな建物のなかゝら、初めてそこへ移つて來たお増の目には、風鈴や何かと一緒に、上から隣の老爺(おやぢ)の禿頭の能く見える黒板塀で仕切られた、じめ/\した狭い庭、水口を開けると、直ぐ向の家の茶の間の話聲が、手に取るやうに聞える臺所などが、鼻が閊(つか)へるやうで、窮屈でならなかつた。 その當座晝間など、その家の茶の間の火鉢の前に坐つてゐると、お増は寂しくて為様(しやう)がなかつた。がさ/\した縁の板敷に雑巾がけをしたり、火鉢を磨いたりして、湯にでも入つて來ると、後はもう何にも為ることがなかつた。長いあひだ居なじんだ陽氣な家の状(さま)が、目に浮んで來た。男は折鞄などを提げて、晝間でも會社の歸りなどに、ちよい/\遣って來た。日が暮れてから、家から出て來ることもあつた。男は女房持であつた。 徳田秋声(1872-1943) | |
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『お末の死』(有島武郎/大正3年1月) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 一 お末はその頃誰から習ひ覚えたともなく、不景気と云ふ言葉を云ひ/\した。 「何しろ不景気だから、兄さんも困つてるんだよ。おまけに四月から九月までにお葬式を四つも出したんだもの」 お末は朋輩にこんな物の云ひ方をした。十四の小娘の云ひ草としては、小ましやくれて居るけれども、仮面(めん)に似た平べつたい、而(そ)して少し中のしやくれた顔を見ると、側で聞いて居る人は思はずほゝゑませられてしまつた。 お末には不景気と云ふ言葉の意味は、固(もと)よりはつきりは判つて居なかつた。唯その界隈では、誰でも顔さへ合はせれば、さう挨拶しあふので、お末にもそんな事を云ふのが時宜にかなつた事のやうに思ひなされて居たのだつた。尤もこの頃は、あのこつ/\と丹念に働く兄の鶴吉の顔にも快(こゝろよ)からぬ黒ずんだ影が浮んだ。それが晩飯の後までも取れずにこびりついて居る事があるし、流元(ながしもと)で働く母がてつくひ(魚の名)のあらを側(そば)にどけたのを、黒にやるんだなと思つて居ると又考へ直したらしく、それを一緒に鍋に入れて煮てしまふのを見た事もあつた。さう云ふ時にお末は何だか淋しいやうな、後から追ひ迫るものでもあるやうな気持にはなつた。なつたけれども、それと不景気としつかり結び附ける程の痛ましさは、まだ持つて居よう筈がない。 有島武郎(1878-1923) | |
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『女のなか』(中村星湖/大正3年1月) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 「ねえ、ねえ。」 二階で調べ物をしてゐた矢崎一郎はさう呼ばれて振向いた。梯子段(はしごだん)の上り口には妻が物を嘲笑(あざわら)ふやうな円い顔を見せてゐた。 「何だい?」と彼は邪魔をされたのですこし腹を立てて問ひ返した。 「妾(わたし)が来ると直(じ)きそんな顔をするんですね。富美子さんの手紙を見せて貰ひに来たのぢやありませんよ……階下(した)へ降りてお仙ちやんをすこし慰さめてやつてお呉んなさいな。何が気に入らないか、人が物を言つても怖い顔をして火鉢の側につうんと坐つたきりですよ。」 妻は一郎の側へ寄つて、一層声を低くしてさう言つた。 中村星湖(1884-1974) | |
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『底の社会へ』(小川未明/大正3年) (レビュー未/以下は岡村書店『底の社會へ』の巻頭に附された自序) この次に短篇を集にして世間へ出すのは一年の後であるか、或は二年の後であるか分らない。人生観が徹底し、確かに思想に深刻を加へたと自信した時でなければ出したくないと思つてゐる。 去年の秋から、今年にかけての是等の作品は、主観の進路を暗示するに止まり、すべて今後に於て形の定まるべきものである。 大正三年四月 未 明 (以下は作品の冒頭) 一 人間の一生は長いやうでも短かいものだ。其の短かい間にも幾多の苦痛と悲しい事件に出遇ふものである。 私は最近に於て、十二年間も同棲をして来た夫婦が別れた事實を見た。これと同じい例を見るのは、此の世間で決して珍らしいことでない。而して是等の事件の原因ともなるべきものは、生活上の困難からだとして、解釋せられてゐるが、もつと其等の人々の心の中に深く立入つて見たなら、空想が事件の進行を助けてゐると言つて差支へがない。 人間は苦しい境遇になると、別の苦痛のない境遇を目に描くものである。 『底の社會へ』(岡村書店/大正3年・序文:相馬御風)所収 「街の二人」「底の社會へ」「露臺」「下の街」「朽ちる體」「愚弄」「昔の敵」「殺人の動機」「死の幻影」「淋しき笑ひ」「三月」「寂寥の人」「春になるまで」「落日」「虐待」「眼前の犠牲」「残雪」「赤い指輪」「無智」「橋」「乞食の児」「青春の死」「夜半まで」「母」「怨まれて」「足に」「都會」 小川未明(1882-1961) | |
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『湖水と彼等』(豊島與志雄/大正3年2月) 湖畔で茶店を営んでいる女性と、その店を訪れた青年の話。 日を追うごとに冬の訪れが感じられるようになったある日、一人の青年が湖畔に佇む茶店を訪れ、絵葉書を買っていく。そして一週間が過ぎ、またあの日の青年が店にやってくる。 「今日はお一人ですか?」 「えゝ此の頃ではお客もあまり無いのですから、女中は二三日前に兄の方へ。…(省略)…」 二人の会話が進む。 「…(省略)…いつも聖書をすこしづゝ読むことにしてゐますの」…(省略)… 「ずっと前からの御信仰ですか。」 「そんなに昔からでもありませんけれど……。」 さらに数日経ったある晴れた朝、彼が舟を借りにやってくる。 「でも水の上はお寒いでせうよ。……お一人?」 「いゝえも一人来るでせう。」 その日の午後三時頃、青年は一人の女性を伴って現れる。 「丁度月がありますから、もしかすると帰りは少し遅くなるかも知れません。御心配なさらないやうに。」 …(省略)… 「えゝ御悠りと。……でもあまり遅くなりますと心配ですから。」 そして青年と女性の乗った舟が、静かに渚を離れていく。 読んでいると、秋の爽やかな情景が目に浮かんでくる。茶店の女性と青年、そしてもう一人の女性の三人の心の内は、湖水に立つさざ波のように静かに、しかし激しく揺れ動いている。 これまでの人生で彼らに何があったのかは詳しく述べられていないが、その抑えたトーンが茶店の前に広がる情景と相まって、独特の世界を醸し出している。 (2003.8.10/菅井ジエラ) ※本誌内企画“「新思潮」を読む”より再掲。 (以下は作品の冒頭) もう長い間の旅である――と、またもふと彼女は思う、四十年の過去をふり返って見ると茫として眼(まなこ)がかすむ。 顔を上げれば、向うまで深く湛えた湖水の面と青く研ぎ澄された空との間に、大きい銀杏の木が淋しく頼り無い郷愁を誘っている。知らない間に一日一日と黄色い葉が散ってゆく、そして今では最早なかば裸の姿も見せている。霜に痛んだ葉の数が次第に少くなることは、やがてこの湖畔の茶店を訪れる旅の客が少くなることであった。 冷(ひやや)かな秋の日の午後、とりとめもなく彼女が斯ういう思いに耽っている時、一人の青年が来て水際に出した腰掛の上に休んだ。 茶と菓子とを運んだ婢(おんな)に昼食(おひる)のあと片付けを云いつけて、彼女はまた漠然たる思いの影を追った。遠くより来る哀悠が湖水の面にひたひたと漣(さざなみ)を立てている。で側の小さい聖書をとり上げてみた。見るともなしにちらと眼をやると、青年はじっと湖水の面を見つめている。 ――われ爾(なんじ)が冷かにもあらず熱くもあらざることを爾の行為(わざ)に由りて知れり我なんじが冷かなるか或は熱からんことを願う こんな句が彼女の心に留った。一筋の雲影もない澄んだ空は、黄色を帯びた光線を深く一杯に含んでいた。其処から何物か震えつつ胸に伝わるものがあった。それは明瞭(はっきり)と知ることが出来なかった。心持ち首を傾(かし)げて、彼女はまた書物の上に眼を落した。 豊島與志雄(1890-1955) 福岡県出身。東京帝国大学仏文科に進学後、『湖水と彼等』で文壇デビュー。続けて「新思潮」に発表した『蠱惑』で作家として広く世に知られるようになって以来、小説はもとより戯曲、童話、翻訳、評論なども手がけた。代表作に『野ざらし』、『どぶろく幻想』、翻訳『ジャン・クリストフ』、『レ・ミゼラブル』、童話集『エミリアンの旅』などがある。 大学で豊島の1年後輩である芥川龍之介は、彼と初めて会った時のことについて、「大へんおとなしい、無口な人と云ふ印象を受けた」と振り返っている。また、豊島の作品については、「始終豊島の作品を注意して読んでゐた所を見ると、やはり僕の興味は豊島の書く物に可成強く動かされてゐたのかも知れない」と書いている。 (『豊島与志雄氏の事』<芥川龍之介全集第3巻/岩波書店>より) | |
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『出奔』(伊藤野枝/大正3年) (レビュー未/以下は作品の冒頭) まずい朝飯をすますと登志子は室に帰っていった。縁側の日あたりに美しく咲きほこっていた石楠花ももういつか見る影もなくなった。 この友達の所へ来てちょうどもう一週間は経ってしまった。いつまでもここにいる訳には行かないのだにどうしたらいいのだろう。なぜあの時すぐに博多から上りに乗ってしまわなかったろう、わずかな途中の不自由とつまらない心配のために、こんな所に来てしまって進退はきわまってしまった。打ち明けねばならないことなのだけれども、友達にもまだ話はしない。話したらまさか「そう」とすましてもいまいけれども、話すのがつらい。やさしい気持ちをもった人だけに余計話しにくい。登志子は呆然とそこの塀近く咲いている桃を眺めて、さしせまった自分の身のおき所について考えようとしていた。 「いい天気ね、今日帰ってきたら一緒にそこらを歩いて見ましょうね」 伊藤野枝(1895-1923) | |
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『三十三の死』(素木しづ子/大正3年) (レビュー未/以下は作品の冒頭) いつまで生きてていつ死ぬか解らない程、不安な淋しいことはないと、お葉(えふ)は考へたのである。併し人間がこの世に生れ出た其瞬間に於いて、その一生が明らかな數字で表はされてあつたならば、決定された淋しさに、終りの近づく不安さに、一日も力ある希望に輝いた日を送ることが、むづかしいかもしれない。 けれどもお葉の弱い心は定められない限りない生の淋しさに堪へられなくなつたのである。そして三十三に死なうと思つた時、それが丁度目ざす光明でもあるかのやうに、行方のない心のうちにある希望を求め得たかのやうに、限りない力とひそかな喜びに堪へられなかつたのである。 お葉は十八の年、不具になつた。 「これからなんでもお前の好きなことをしたがいい。」 一人の母親はそれが本當に什(ど)うでもいいやうに、茫然とお葉の顏を見て言つたのである。庭の椿(つばき)の葉の上から、青空が硝子(ガラス)の樣に冷たく澄んでゐるのを見てゐた彼女は、急に籠を出された小鳥のやうに、何處へ飛んで行かうといふ、よるべない空の廣さに堪へられない淋しさを感じた。 素木しづ子(=しづ)(1895-1918) | |
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『黒髪』(近松秋江/大正3年) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 一 ……その女は、私の、これまでに数知れぬほど見た女の中で一番気に入った女であった。どういうところが、そんなら、気に入ったかと訊(たず)ねられても一々口に出して説明することは、むずかしい。が、何よりも私の気に入ったのは、口のききよう、起居振舞(たちいふるま)いなどの、わざとらしくなく物静かなことであった。そして、生まれながら、どこから見ても京の女であった。もっとも京の女と言えば、どこか顔に締りのない感じのするのが多いものだが、その女は眉目(びもく)の辺が引き締っていて、口元などもしばしば彼地(あちら)の女にあるように弛(ゆる)んだ形をしておらず、色の白い、夏になると、それが一層白くなって、じっとり汗ばんだ皮膚の色が、ひとりでに淡紅色を呈して、いやに厚化粧を売り物にしているあちらの女に似ず、常に白粉(おしろい)などを用いぬのが自慢というほどでもなかったけれど……彼女は、そんな気どりなどは少しもなかったから……多くの女のする、手に暇さえあれば懐中から鏡を出して覗(のぞ)いたり、鬢(びん)をなおしたり、または紙白粉で顔を拭(ふ)くとかいったようなことは、ついぞなく、気持ちのさっぱりとした、何事にでも内輪な、どちらかというと色気の乏しいと言ってもいいくらいの女であった。 近松秋江(1876-1944) | |
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『トコヨゴヨミ』(田山花袋/大正3年3月) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 一 雑嚢を肩からかけた勇吉は、日の暮れる時分漸く自分の村近く帰って来た。村と言っても、其処に一軒此処に一軒という風にぽつぽつ家があるばかりで、内地のようにかたまって聚落を成してはいなかった。それに、家屋も堀立小屋見たいなものが多かった。それは其処等にある木を伐り倒して、ぞんざいに板に引いて、丸太を柱にして、無造作に組合せたようなものばかりであった。勇吉も矢張りそういう家屋に住んでいた。 「もう二年になる。」 勇吉はいつもそんな事を考えた。海岸に近い村に教鞭を執っていた時分は、それでもまだ生活に余裕があった。 「何うせ、田舎に埋れた志だ。無邪気な子供を相手に暮して行くのが自分には相応わしい。」こう思って自から慰めた。国から兄弟達が心配して送ってよこしたような妻は、かれがまだ海を越えて此地に渡って来ない前に一緒になったのであるが、かれはそれを伴れて彼方から此方へと漂泊して行った。海岸の村に来るまでにも、かれは尠くとも四カ所の小学校を勤めて歩いた。ある山の中では、自分一人きりで、十五、六人の児童を相手にのんきに暮した。そこは粟餅、きび飯、馬鈴薯、蕎麦、豆などより他に食うことの出来ないような処であった。勇吉は今でも其処の生活を振返って考えずには居られなかった。 田山花袋(1872-1930) | |
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『こころ』(夏目漱石/大正3年4〜8月) 明治天皇の死後、天皇の後を追って夫婦で自殺した乃木希典。 乃木は西南戦争時に連隊旗を奪われたことを30年もの長い間悔やんでの死だった。 その後を追うかのように「こころ」に登場する先生は過去の友人の死を悼み、自殺する。 乃木希典の殉死と先生の自殺は似ているが、漱石は全く正反対の意味合いで両者の自殺を扱っている。 乃木の自殺は、旧時代的な考えの死。 先生の死は、新たな価値感の誕生。 自殺する前に、先生は自分を慕う学生の若者に対して、延々と弱音・泣き言を吐き続ける。 それは、戦国時代から江戸を通じて日本全土を支配していた武士道精神から考えると 大の大人の男がすべき行為ではない。 夏目漱石が小説の中に見出した新しい発見は、この弱音や泣き言だと言えるのかもしれない。 情報時代に突入し、資本主義による競争原理の中で集団や家族は解体されていき、 市民一人ひとりが自らの意思だけを頼みに生きていかなければならなくなる。 親や兄弟でさえ自分を救ってくれない個人主義の時代に突入し、個人はますます孤独になっていく。 競争社会の中で勝ち負けが繰り返され、敗者の山だけがひたすら高く積み上げられていくが、 資本主義経済においては、それは避けては通れない道である。 世の中が安定していて平穏に流れている時は社会は喜劇で一杯になるのだろうが、 時代が大きな変化を遂げようとしている時には、沢山の矛盾や悲劇が生み出される。 物語で描かれる悲劇は現実の写し鏡のようなもので、ある意味時代・社会、そして それを構成する人々は誰かが悲劇を語ってくれるのを欲しているのかもしれない。 悲劇が言葉や文字という形をとった瞬間から、悲劇は徐々に悲劇性を和らげていき そのうちにその悲劇自体時代が産み落とした取るに足らない滑稽な出来事の一つ、もしくは神話や寓話のような 人間にはどうすることも出来ない古の時代に起こった大きな出来事の一つとして数えられるようになる。 しかし、悲劇がそのような段階になる通過儀礼として、まず誰かがその時代ならではの感性で悲劇を語らなければならないのかもしれない。 (2006.9.8/A) (以下は作品の冒頭) 上 先生と私 一 私(わたくし)はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚(はば)かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執(と)っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字(かしらもじ)などはとても使う気にならない。 私が先生と知り合いになったのは鎌倉(かまくら)である。その時私はまだ若々しい書生であった。暑中休暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという端書(はがき)を受け取ったので、私は多少の金を工面(くめん)して、出掛ける事にした。私は金の工面に二(に)、三日(さんち)を費やした。ところが私が鎌倉に着いて三日と経(た)たないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れという電報を受け取った。電報には母が病気だからと断ってあったけれども友達はそれを信じなかった。 夏目漱石(1867-1916) | |
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『松葉家の娘』(泉斜汀/大正3年5月) (レビュー未/以下は作品の冒頭) お化横町(ばけよこちやう) 「天王寺(てんわうじ)のやあゝゝゝ、ツルツルッンツル、ツッチリガンツン、ツツチテツトトン、妖霊星(えうれいぼし)を見(み)ざるか、」寂(さ)びたる聲(こゑ)で何者(なにもの)か唄(うた)ふ。 下谷數寄屋町(したやすきやまち)の唯(と)ある露地(ろぢ)、俗(ぞく)に又(また)お化横町(ばけよこちやう)とも云(い)ふ。お化横町(ばけよこちやう)と云(い)つたからとて、何(なに)も妖怪變化(えうくわいへんげ)の種属(しゆぞく)が、夜半(よなか)に出(で)て來(く)る次第(しだい)でもなく、別(べつ)に又(また)魑魅魍魎(ちみまうりやう)の類(たぐひ)が、棲(す)んで居(ゐ)る譯(わけ)でもないが、入口(いりぐち)がかき餅屋(もちや)と、貸本屋(かしほんや)を兼(か)ねた莨屋(たばこや)とで……………眞暗(まつくら)で、狭(せま)くつて、勿論(もちろん)洞穴(ほらあな)のやうな處(ところ)。ずつと抜(ぬ)けて突當(つきあた)ると、皆(みな)御神燈(ごしんとう)のぶら下(さが)つた、何(いづ)れも陽氣(やうき)な家續(いへつゞき)。 其(それ)は妖怪變化(えうくわいへんげ)こそ、眞逆(まさか)に顕(あら)はれては來(こ)ないけれども、朝(あした)に鬢櫛(びんぐし)を頭(あたま)に挿(さ)して、髪結(かみゆ)ひに行(ゆ)く抱妓(かゝへ)あれば、夕(ゆふべ)に糠袋(ぬかぶくろ)を口(くち)に啣(くは)へて、錢湯(せんたう)に行(ゆ)く自前(じまへ)あり、或時(あるとき)は又(また)岡持(をかもち)を提(さ)げて、焼芋(やきいもや)へ駈(か)けて行(い)く、下地(したぢ)ッ子(こ)も見懸(みか)けぬではないが、朝夕(あさゆふ)茲(ここ)を出没(しゆつぼつ)する、皆(みな)大方(おほかた)は化粧(けしやう)の者(もの)のみ。 然(さ)れば晝間(ひるま)は森(しん)として、物音(ものおと)も聞(きこ)えぬくらゐ。何處(どこ)でも抜裏(ぬけうら)と云(い)ふものは、何(なん)と無(な)く寂(さび)しいものであるが、此處(こゝ)は又(また)其(それ)が格別(かくべつ)。 『松葉家乃娘』(鳳鳴社/大正3年) 泉斜汀(1880-1933) 泉鏡花の弟。 | |
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『老年』(芥川龍之介/大正3年5月) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 橋場(はしば)の玉川軒(ぎょくせんけん)と云(い)う茶式料理屋で、一中節(いっちゅうぶし)の順講があった。 朝からどんより曇っていたが、午(ひる)ごろにはとうとう雪になって、あかりがつく時分にはもう、庭の松に張ってある雪よけの縄(なわ)がたるむほどつもっていた。けれども、硝子(ガラス)戸と障子(しょうじ)とで、二重にしめきった部屋の中は、火鉢のほてりで、のぼせるくらいあたたかい。人の悪い中洲(なかず)の大将などは、鉄無地(てつむじ)の羽織に、茶のきんとうしの御召揃(おめしぞろ)いか何かですましている六金(ろっきん)さんをつかまえて、「どうです、一枚脱いじゃあ。黒油(くろあぶら)が流れますぜ。」と、からかったものである。六金さんのほかにも、柳橋(やなぎばし)のが三人、代地(だいち)の待合の女将(おかみ)が一人来ていたが、皆四十を越した人たちばかりで、それに小川の旦那(だんな)や中洲の大将などの御新造(ごしんぞ)や御隠居が六人ばかり、男客は、宇治紫暁(うじしぎょう)と云う、腰の曲った一中の師匠と、素人(しろうと)の旦那衆(だんなしゅ)が七八人、その中の三人は、三座の芝居や山王様の御上覧祭を知っている連中なので、この人たちの間では深川の鳥羽屋の寮であった義太夫(ぎだゆう)の御浚(おさら)いの話しや山城河岸(やましろがし)の津藤(つとう)が催した千社札の会の話しが大分賑やかに出たようであった。 芥川龍之介(1892-1927) | |
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『あらくれ』(徳田秋声/大正4年) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 一 お島(しま)が養親(やしないおや)の口から、近いうちに自分に入婿(いりむこ)の来るよしをほのめかされた時に、彼女の頭脳(あたま)には、まだ何等の分明(はっきり)した考えも起って来なかった。 十八になったお島は、その頃その界隈(かいわい)で男嫌(おとこぎら)いという評判を立てられていた。そんなことをしずとも、町屋の娘と同じに、裁縫やお琴の稽古(けいこ)でもしていれば、立派に年頃の綺麗(きれい)な娘で通して行かれる養家の家柄ではあったが、手頭(てさき)などの器用に産れついていない彼女は、じっと部屋のなかに坐っているようなことは余り好まなかったので、稚(ちいさ)いおりから善く外へ出て田畑の土を弄(いじ)ったり、若い男たちと一緒に、田植に出たり、稲刈に働いたりした。そうしてそんな荒仕事がどうかすると寧(むし)ろ彼女に適しているようにすら思われた。養蚕の季節などにも彼女は家中(うちじゅう)の誰よりも善く働いてみせた。そうして養父や養母の気に入られるのが、何よりの楽しみであった。界隈の若い者や、傭(やと)い男などから、彼女は時々揶揄(からか)われたり、猥(みだ)らな真似(まね)をされたりする機会が多かった。お島はそうした男たちと一緒に働いたり、ふざけたりして燥(はしゃ)ぐことが好(すき)であったが、誰もまだ彼女の頬(ほお)や手に触れたという者はなかった。そう云う場合には、お島はいつも荒れ馬のように暴れて、小(こ)ッぴどく男の手顔を引かくか、さもなければ人前でそれを素破(すっぱ)ぬいて辱(はじ)をかかせるかして、自ら悦(よろこ)ばなければ止まなかった。 お島は今でもその頃のことを善く覚えているが、彼女がここへ貰(もら)われてきたのは、七つの年であった。お島は昔気質(むかしかたぎ)の律義(りちぎ)な父親に手をひかれて、或日の晩方、自分に深い憎しみを持っている母親の暴(あら)い怒と惨酷(ざんこく)な折檻(せっかん)から脱(のが)れるために、野原をそっち此方(こっち)彷徨(うろつ)いていた。時は秋の末であったらしく、近在の貧しい町の休茶屋や、飲食店などには赤い柿の実が、枝ごと吊(つる)されてあったりした。父親はそれらの休み茶屋へ入って、子供の疲れた足を劬(いた)わり休めさせ、自分も茶を呑んだり、莨(たばこ)をふかしたりしていたが、無智なお島は、茶屋の女が剥(む)いてくれる柿や塩煎餅(しおせんべい)などを食べて、臆病(おくびょう)らしい目でそこらを見まわしていた。 徳田秋声(1872-1943) | |
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『硝子戸の中』(夏目漱石/大正4年1月) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 一 硝子戸(ガラスど)の中(うち)から外を見渡すと、霜除(しもよけ)をした芭蕉(ばしょう)だの、赤い実(み)の結(な)った梅もどきの枝だの、無遠慮に直立した電信柱だのがすぐ眼に着くが、その他にこれと云って数え立てるほどのものはほとんど視線に入って来(こ)ない。書斎にいる私の眼界は極(きわ)めて単調でそうしてまた極めて狭いのである。 その上私は去年の暮から風邪(かぜ)を引いてほとんど表へ出ずに、毎日この硝子戸の中にばかり坐(すわ)っているので、世間の様子はちっとも分らない。心持が悪いから読書もあまりしない。私はただ坐ったり寝たりしてその日その日を送っているだけである。 しかし私の頭は時々動く。気分も多少は変る。いくら狭い世界の中でも狭いなりに事件が起って来る。それから小さい私と広い世の中とを隔離しているこの硝子戸の中へ、時々人が入って来(く)る。それがまた私にとっては思いがけない人で、私の思いがけない事を云ったり為(し)たりする。私は興味に充(み)ちた眼をもってそれらの人を迎えたり送ったりした事さえある。 夏目漱石(1867-1916) | |
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『ひょっとこ』(芥川龍之介/大正4年) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 吾妻橋(あずまばし)の欄干(らんかん)によって、人が大ぜい立っている。時々巡査が来て小言(こごと)を云うが、すぐまた元のように人山(ひとやま)が出来てしまう。皆、この橋の下を通る花見の船を見に、立っているのである。 船は川下から、一二艘(そう)ずつ、引き潮の川を上って来る。大抵は伝馬(てんま)に帆木綿(ほもめん)の天井を張って、そのまわりに紅白のだんだらの幕をさげている。そして、舳(みよし)には、旗を立てたり古風な幟(のぼり)を立てたりしている。中にいる人間は、皆酔っているらしい。幕の間から、お揃いの手拭を、吉原(よしわら)かぶりにしたり、米屋かぶりにしたりした人たちが「一本、二本」と拳(けん)をうっているのが見える。首をふりながら、苦しそうに何か唄っているのが見える。それが橋の上にいる人間から見ると、滑稽(こっけい)としか思われない。お囃子(はやし)をのせたり楽隊をのせたりした船が、橋の下を通ると、橋の上では「わあっ」と云う哂(わら)い声が起る。中には「莫迦(ばか)」と云う声も聞える。 橋の上から見ると、川は亜鉛板(とたんいた)のように、白く日を反射して、時々、通りすぎる川蒸汽がその上に眩しい横波の鍍金(めっき)をかけている。そうして、その滑(なめらか)な水面を、陽気な太鼓の音、笛の音(ね)、三味線の音が虱(しらみ)のようにむず痒(かゆ)く刺している。札幌ビールの煉瓦壁(れんがかべ)のつきる所から、土手の上をずっと向うまで、煤(すす)けた、うす白いものが、重そうにつづいているのは、丁度、今が盛りの桜である。言問(こととい)の桟橋(さんばし)には、和船やボートが沢山ついているらしい。それがここから見ると、丁度大学の艇庫(ていこ)に日を遮られて、ただごみごみした黒い一色になって動いている。 芥川龍之介(1892-1927) | |
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『余興』(森鴎外/大正4年) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 同郷人の懇親会があると云うので、久し振りに柳橋の亀清(かめせい)に往った。 暑い日の夕方である。門から玄関までの間に敷き詰めた御影石(みかげいし)の上には、一面の打水がしてあって、門の内外には人力車がもうきっしり置き列(なら)べてある。車夫は白い肌衣(はだぎ)一枚のもあれば、上半身全く裸(らてい)にしているのもある。手拭(てぬぐい)で体を拭(ふ)いて絞っているのを見れば、汗はざっと音を立てて地上に灑(そそ)ぐ。自動車は門外の向側に停めてあって技手は襟(えり)をくつろげて扇をばたばた使っている。 玄関で二三人の客と落ち合った。白のジャケツやら湯帷子(ゆかた)の上に絽(ろ)の羽織やら、いずれも略服で、それが皆識(し)らぬ顔である。下足札を受け取って上がって、麦藁帽子(むぎわらぼうし)を預けて、紙札を貰(もら)った。女中に「お二階へ」と云われて、梯(はしご)を登り掛かると、上から降りて来る女が「お暑うございますことね」と声を掛けた。見れば、柳橋で私の唯一人識っている年増芸者であった。 この女には鼠頭魚(きす)と云う諢名(あだな)がある。昔は随分美しかった人らしいが、今は痩(や)せて、顔が少し尖(とが)ったように見える。諢名はそれに因(よ)って附けられたものである。もう余程前から、この土地で屈指の姉えさん株になっている。 森鴎外(1862-1922) | |
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『外科室の患者』(白石実三/大正4年3月) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 一 はじめて私の入院した日は、ほかに大きな手術があるといふので、兵隊たちの治療は午後になつてゐた。 『あの上等兵は今ごろ痲醉をかけられたらうかなあ』 『はゝは、ズイコ/\って骨を切られてるぜ』 『黙つてゐればいゝ氣になつて、こゝぢやどんな荒療治をしやがるか知れねえ……だから己あ疵口を觸るか觸らねえに、痛い/\つて騒いでやるんだ』 空は青く、日はもう温かい早春の午前であつた。患者の兵隊たちは、日なたの寝臺の上に集まつて、楽しさうに談笑してゐた。いづれも白い病院服の二の腕に紅い十字をつけ、廣い袖口から露出した太い手だの、頸だの、それから毛ぶかく逞しい脛だのを、それ/゛\に繃帯してゐた。私は自分の名札のかゝつた隅の方の寝臺によりかゝつたまゝ、なんとなく改まつた、ふしぎな心もちでそれを眺めてゐた。 『曠野』(博文館/大正9年)所収 「盗み」「母の骨」「白痴のごとく」「死人のかほり」「第一日」「二人の不良教師」「野へ」「ほとけの家」「外科室の患者」「曠野の死」 白石実三(實三)(1886-1937) | |
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『美女の死骸』(上司小剣/大正4年) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 一 今日から『入梅』と暦に書いてある日、私は暫く二階の欄干に凭れて、薄墨色の迅い雲足を眺めてゐた。雨はまだ一滴も落ちぬけれど、空気には夥しく水分を含んで、夕陽が丘と名つくる細長い丘一帯の若葉は、青い絵の具を使ひ過ぎたと言つた風に、重苦しく見えてゐる。 丘の麓の広い野原には、新建ちの家が四五軒、塗り立ての渋の色を薄赤く見せてゐるが、それも湿気にベトベトとしてゐるらしく、手に触れる指が赤く染まりさうである。 午前十時の太陽は、腫物の癒つた痕でも見るやうに、薄墨色の黒の中に、ぼんやりと円い一点を印して、よくよく考へなければそこに太陽のあるといふことを知り難い。 上司小剣(1874-1947) | |
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『小ひさき窓より』(上司小剣/大正4年3月) (レビュー未) 『小ひさき窓より』(大同館書店/大正4年)収載作品 「蜘蛛と蝉と蝶と」「小ひさな芸術家」「若葉の村」「顔と顔」「惟然坊」「多弁の悲哀」「『遊び』」「村落の集合」「甕の中」「旅人」「宗旨」「堅い殻」「二老人の死」「粟餅」「夏の姿」「鐵の門」「字の書いた紙」「大きな潮流」「猫と鴉と」「長い線」「パンの話」「秋江様へ」「銀座の夜の夢」「人間と人間と」「傍観者」「個人的に」「戦場へ」「女優と女流小説家」「仁左衛門と雁次郎と」「金平問答」「忠弥の投げた小石」「冷笑」「雪」「楽屋落ち」「雲の色」「秋声と白鳥と」「品性庵人格居士」「ただれの会」「賑かな寂寥」「秋声さま」「隠遁の貴族」「野崎の道行」「夏の旅」「新婦人」「赤いリボン」「ささ啼」「眼鏡」「椿の花」「『心中未遂』の作者に」「変衣花笠森」「体力」「独りぽッち」「『人民読本』」「日記から」「獺」「ブシの剥製」「蚤」「見舞」「画中の人」「花道」「閑文字」「開帳」 ※この作品集は「近代デジタルライブラリー」にて読むことができます。→『小ひさき窓より』(上司小剣) 上司小剣(1874-1947) | |
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『入江のほとり』(正宗白鳥/大正4年4月) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 一 長兄の栄一が奈良から出した絵葉書は三人の弟と二人の妹の手から手へ渡った。が、勝代のほかには誰も興を寄せて見る者はなかった。 「どこへ行っても枯野で寂しい。二三日大阪で遊んで、十日ごろに帰省するつもりだ」と筆でぞんざいに書いてある文字を、鉄縁の近眼鏡を掛けた勝代は、目を凝(こ)らして、判じ読みしながら、 「十日といえば明後日だ。良さんはもう一日二日延して、栄さんに会うてから学校へ行くとええのに」 「会ったって何にもならんさ」良吉はそっけなく言って、「今時分は奈良も寒くってだめだろうな。わしが行った時は暑くって弱ったが、今度は花盛りに一度大和巡(やまとめぐ)りをしたいな。初瀬(はつせ)から多武(とう)の峰へ廻って、それから山越しで吉野へ出て、高野山へも登ってみたいよ。足の丈夫なうちは歩けるだけ方々歩いとかなきゃ損だ」 「勝はどこも見物などしとうない。東京へ行っても寄宿舎の内にじっとしていて、休日にも外へは出まいと思うとるの」勝代はわざと哀れを籠(こ)めた声音でこう言って、さっきから一言も口を利(き)かないで、炬燵(こたつ)に頬杖(ほおづえ)突いている辰男に向って、「辰さんは今年の暑中休暇にでも遠方へ旅行してきなさいな。家の者は男は皆な東京や大阪や、名所見物をしとるし、温泉へも行ったりしとるのに、辰さんばかりはちっとも旅行しとらんのじゃから、気の毒に思われる。自分では東京へ行ってみたいとも思わんのかな」 ※この作品は「青空文庫」にて読むことができます。→「入江のほとり」(正宗白鳥) 正宗白鳥(1879-1962) | |
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『地に頬つけて』(谷崎精二/大正4年10月) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 一 内と外とのけぢめもわからぬ程眞黒に夜の色で蔽(おほ)はれた發電所の硝子(ガラス)窓(まど)がだんだん仄白(ほのじろ)く自分の色を取返して來て、冷たい、だが爽かな朝風が何處からともなく發電所の中へ吹入つて來ると、其れはもう夜が明けかかる知らせであつた。 俊治は大概其の頃には配電板の前の椅子に腰を掛けて、机の上へ頬杖を突きながらこくりこくりと居眠りをしてゐた。油臭いズボンを履いた兩足は大きな鐡の火鉢を跨(また)いで無造作に投出され、八番鐡線を切つて造(こしら)へた火箸が火の消えかかつた火鉢の中にしよんぼり突きさされてある。 ※著作権が存続中です。問題があれば削除します。(菅井ジエラ) 谷崎精二(1890-1971) | |
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『羅生門』(芥川龍之介/大正4年11月) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 或日(あるひ)の暮方の事である。一人の下人が、羅生門(らしやうもん)の下で雨やみを待つてゐた。 廣い門の下には、この男の外(ほか)に誰もゐない。唯、所々丹塗(にぬり)の剥げた、大きな圓柱(まるばしら)に、蟋蟀(きり/″\す)が一匹とまつてゐる。羅生門(らしやうもん)が、朱雀大路(すじやくおおぢ)にある以上(いじやう)は、この男の外にも、雨(あめ)やみをする市女笠(いちめがさ)や揉烏帽子が、もう二三人(にん)はありさうなものである。それが、この男(をとこ)の外(ほか)には誰(たれ)もゐない。 何故(なぜ)かと云ふと、この二三年、京都には、地震(ぢしん)とか辻風とか火事とか饑饉とか云ふ災(わざはひ)がつゞいて起つた。そこで洛中(らくちう)のさびれ方(かた)は一通りでない。舊記によると、佛像や佛具を打砕(うちくだ)いて、その丹(に)がついたり、金銀の箔(はく)がついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪(たきぎ)の料(しろ)に賣つてゐたと云ふ事である。洛中(らくちう)がその始末であるから、羅生門の修理(しゆり)などは、元より誰も捨てゝ顧(かへりみ)る者がなかつた。するとその荒(あ)れ果(は)てたのをよい事にして、狐狸(こり)が棲む。盗人(ぬすびと)が棲む。とうとうしまひには、引取(ひきと)り手のない死人を、この門へ持つて來て、棄てゝ行くと云ふ習慣(しふくわん)さへ出來た。そこで、日の目が見えなくなると、誰でも氣味(きみ)を惡るがつて、この門の近所(きんじよ)へは足(あし)ぶみをしない事になつてしまつたのである。 芥川龍之介(1892-1927) | |
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『鼻』(芥川龍之介/大正5年2月) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 禅智内供(ないぐ)の鼻(はな)と云へば、池の尾で知らない者はない。長さは五六寸あつて上唇の上から顋(あご)の下まで下つてゐる。形は元も先も同じやうに太い。云(い)はゞ細長い腸詰めのやうな物が、ぶらりと顔のまん中からぶら下つてゐるのである。 五十歳を越えた内供は、沙彌(しゃみ)の昔から内道場供奉(ないだうぢやうぐぶ)の職に陞(のぼ)つた今日(こんにち)まで、内心では始終この鼻(はな)を苦に病んで來た。勿論(もちろん)表面(へうめん)では、今でもさほど氣にならないやうな顔(かほ)をしてすましてゐる。これは専念に當來の浄土(じやうど)を渇仰すべき僧侶の身で、鼻の心配(しんはい)をするのが悪いと思つたからばかりではない。それより寧、自分(じぶん)で鼻を氣にしてゐると云ふ事を、人に知(し)られるのが嫌(いや)だつたからである。内供は日常の談話(だんわ)の中に、鼻と云ふ語が出て來るのを何よりも惧(おそ)れてゐた。 芥川龍之介(1892-1927) | |
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『沈滞』(水野盈太郎=葉舟/大正5年3月) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 一 不意にぐつと息がつまつたやうで、彼は全身が眠りからさめた。 驚いて目をあけたその瞬間に、そのからだの周囲(まはり)には、きいろく濁つた電燈の光の中に、薄青く水づいた光がとけ込んで来て居て、埃の立つた穴蔵の底のやうな冷さが澱んで居るのを感じた。それで彼は身慄ひして目をつぶつてしまつたが、心に今まで眠つて居た部屋の中をはつきりと見た。 ゆふべもまた、彼は窮窟な小い椅子の上で眠つてしまつた。船のデッキで使ふ狭いヅック張りの椅子の上に座布団を並べて、それに彼はからだを縮めて寝て居る。かうして一週間近くもこの部屋で眠りつゞけて居るのである。 水野盈太郎(=葉舟)(1883-1947) | |
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『湖水の女』(鈴木三重吉/大正5年) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 一 むかしむかし、或(ある)山の上にさびしい湖水がありました。その近くの村にギンという若ものが母親と二人でくらしていました。 或日(あるひ)ギンが、湖水のそばへ牛をつれていって、草を食べさせていますと、じきそばの水の中に、若い女の人が一人、ふうわりと立って、金(きん)の櫛(くし)で、しずかに髪をすいていました。下にはその顔が鏡にうつしたように、くっきりと水にうつッていました。それはそれは何(なん)とも言いようのない、うつくしい女でした。 ギンはしばらく立って見つめていました。そのうちに、何だか、じぶんのもっている、大麦でこしらえたパンとバタを、その女の人にやりたくなって、そっと、岸へ下(お)りていきました。 女は間(ま)もなく、髪をすいてしまって、すらすらとこちらへ歩いて来ました。ギンはだまってパンとバタをさし出しました。女はそれを見ると顔をふって、 「かさかさのパンをもった人よ、 私(あたし)はめったに、つかまりはしませんよ。」 と言うなり、すらりと水の下へもぐってしまいました。 鈴木三重吉(1882-1936) | |
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『手巾』(芥川龍之介/大正5年10月) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 東京帝国法科大学教授、長谷川謹造先生は、ヴエランダの籐椅子(とういす)に腰をかけて、ストリントベルクの作劇術(ドラマトウルギイ)を読んでゐた。 先生の専門は、植民政策の研究である。従つて読者には、先生がドラマトウルギイを読んでゐると云ふ事が、聊(いささか)、唐突の感を与へるかも知れない。が、学者としてのみならず、教育家としても、令名(れいめい)ある先生は、専門の研究に必要でない本でも、それが何等かの意味で、現代学生の思想なり、感情なりに、関係のある物は、暇のある限り、必(かならず)一応は、眼を通して置く。現に、昨今は、先生の校長を兼ねてゐる或高等専門学校の生徒が、愛読すると云ふ、唯、それだけの理由から、オスカア・ワイルドのデ・プロフンデイスとか、インテンシヨンズとか云ふ物さへ、一読の労を執つた。さう云ふ先生の事であるから、今読んでゐる本が、欧洲近代の戯曲及俳優を論じた物であるにしても、別に不思議がる所はない。何故と云へば、先生の薫陶(くんたう)を受けてゐる学生の中には、イブセンとか、ストリントベルクとか、乃至メエテルリンクとかの評論を書く学生が、ゐるばかりでなく、進んでは、さう云ふ近代の戯曲家の跡を追つて、作劇を一生の仕事にしようとする、熱心家さへゐるからである。 芥川龍之介(1892-1927) | |
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『修道院の秋』(南部修太郎/大正5年11月) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 「好いかよう……」 と、若い水夫の一人が、間延びのした太い聲で叫びながら船尾の纜(ともづな)を放すと、鈍い汽笛がまどろむやうに海面を掠めて、船は靜かに函館の舊棧橋を離れた。 港の上にはまだ冷冷とした朝靄が罩め渡つて、雨上りの秋空は憂ひ氣に暗んでゐた。騷がしい揚錨機(ウインチ)の音、出帆の相圖の笛の響などが、その重く沈んだ朝の空氣を顫はしながら聞える。蒼黒く濁つた海は果敢ない空の明るみを波の背に映しながら、絶えず往き來する小蒸汽の蹴波に搖いでゐた。時時白い鴎の群が水を滑るやうに低く飛んで、さつと身を飜しては船の陰に隱れる。そして何時の間にか雪を散らしたやうな點になつて、遠くの波の間にふんはりと浮ぶ。荷役に忙しい樺太や釧路通ひの汽船や、白いペンキの醜く剥げ落ちた帆船の中には、舷の低い捕鯨船の疲れたやうな姿が横はつてゐる。私の船はその間を緩かに進んで行つた。 南部修太郎(1892-1936) | |
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『子をつれて』(葛西善蔵/大正6年) 西日の引いた縁側近くで、ひとり淋しく晩酌をしていたところに、立ち退き請求の三百がやってきた。 “一寸そこまで散歩に来たものですから…” 彼の一家は家賃の滞納で、今月の10日迄に立ち退くように言われているのだ。 しかし、彼には仕事も持ち合わせの金もない。妻は3人いる子どものうち、一番下の子どもを連れて郷里へと金の工面に行っているが、“無事着いた、十日迄には金を持って帰る”という手紙が一通あったきり、便りがない。彼は少しだけでもよいので、できるだけ立ち退く日を延ばしてほしかった。 「…どうかこの十五日まで御猶予願いたいものですが、…」 「出来ませんな、断じて出来るこっちゃありません!」 彼はこの3、4カ月にいろいろな友人から金を借りていたが、それを返せず、そのため周りに疎んじられる存在になっていた。最後まで金を貸してくれていたKも、常陸の磯原へ避暑に行っているらしく、今朝、彼のもとに絵葉書が届いていた。 そして、10日当日。立ち退きの期日がやってきた。三百が彼の家に顔を出した。 「家も定まったでせうな? 今日は十日ですぜ。…御承知でせうな?」 「これから捜さうといふんですがな、併し晩までに引越したらそれでいい訳なんでせう」 あてもなく住まいを捜す彼。そして新居が見つからないまま、とうとう日が暮れてしまい…。 彼は幼い子ども2人とともに、どんな生活を歩んでいくのだろうか。そして一番下の子どもと郷里に帰っている妻は彼らの元に戻ってくるのだろうか。この家の行く末を思うと、とてもとても淋しくなってくる。 (2006.8.30/菅井ジエラ) (以下は作品の冒頭) 一 掃除をしたり、お菜(さい)を煮たり、糠味噌を出したりして、子供等に晩飯を濟まさせ、彼はやうやく西日の引いた縁側近くへお膳を据ゑて、淋しい氣持で晩酌の盃を甞めてゐた。すると御免とも云はずに表の格子戸をそうつと開けて、例の立退(たちの)き請求の三百が、玄關の開いてた障子の間から、ぬうつと顏を突出した。 「まあお入りなさい」彼は少し酒の氣の廻つてゐた處なので、坐つたなり元氣好く聲をかけた。 「否(いや)もうこゝで結構です。一寸そこまで散歩に來たものですからな。……それで何ですかな、家が定まりましたでせうな? もう定まつたでせうな?」 「……さあ、實は何です、それについて少しお話したいこともあるもんですから、一寸まあおあがり下さい」 彼は起つて行つて、頼むやうに云つた。 葛西善蔵(1887-1928) 青森県弘前市出身。大正元年に処女作である「哀しき父」を発表。その後、数々の“私小説”を著している。代表作に「子をつれて」「椎の若葉」など。 | |
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『西班牙犬の家』(佐藤春夫/大正6年1月) 近頃では犬のフラテを連れての散歩も専ら彼の行きたい方向に任せていたが、その日も私は空想に浸りながら彼について歩いていた。 ぼんやりと2時間近く歩いた頃だろうか、いつの間にか見晴らしの良い場所まで登ってきたらしく、一面には見知らぬ光景が広がっていた。後ろを見ると雑木林があったのだが、林の向こうに何があるのか妙にそそられる。フラテも同じ考えだったようで、一緒になってずんずん入っていった。 30分、また30分と歩いては、こんな広い雑木林があったのかと少し驚いたが、そうこうするうちにフラテが立ち止まり、短く二声吠えた。 少し不思議だった。こんなところに住家があろうとは! 「林のなかに雑っている」という形容がふさわしい家。私は、その家の西洋風な佇まいに大変興味をそそられた。 “ともかくも私はこの家へ這入って見よう。道に迷うたものだと言って…” 正面へ回り石段を登って玄関の扉をたたいたが、誰も応答しない。一瞬、空き家なのかとも思ったが、もちろん空き家ではない。というのも、窓越しに家の中を覗くと、卓にあった吸いさしの煙草から煙が立ち上っていたからだ。ますます興味をもった私は、どうしても家に入りたくなった。それで、もし主人が帰ってきても訳を話せば快く歓迎してくれるだろうと虫のよい解釈をして、こっそり扉を開け中に入った。すると…。 真っ黒な西班牙(すぺいん)犬がいた。その犬は丸くなって居眠りしていたが、私たちの訪問にのっそり起きあがった。……。 作品タイトルに「(夢見心地になることの好きな人々の為めの短篇)」という添え書きがされた、何とも幻想的な物語。 (2007.3.28/菅井ジエラ) (以下は作品の冒頭) フラテ(犬の名)は急に駆け出して、蹄鍛冶屋(ひづめかじや)の横に折れる岐路のところで、私を待っている。この犬は非常に賢い犬で、私の年来の友達であるが、私の妻などは勿論(もちろん)大多数の人間などよりよほど賢い、と私は信じている。で、いつでも散歩に出る時には、きっとフラテを連れて出る。奴は時々、思いもかけぬようなところへ自分をつれてゆく。で近頃(ちかごろ)では私は散歩といえば、自分でどこへ行こうなどと考えずに、この犬の行く方へだまってついて行くことに決めているようなわけなのである。 佐藤春夫(1892-1964) | |
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『涯なき路』(岡田三郎/大正6年) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 一 汽車はながい旅を駛りつゞけた。 前の日、どんよりと曇つた、だが波の穏やかな津軽海峡を連絡船で渡り、電車などが眼まぐろしく走り交してゐる繁華なH──へ上陸すると、ごたごた雑沓した停車場の待合室で二時間とは憩まぬうちに、すぐにまたK──直行の汽車の窮屈な三等室の埃だらけの腰掛に、長旅に疲れた身體をおろした。 それから十幾時間、汽車は常に北へ北へとうねうね駛りつゞけた。赤土ばかりの尖つた形の山が聳えてゐる、大きな暗い沼の畔を、或は内地からの移住民達の小さな黒い姿を點々と見せてゐる荒凉たる未墾地を、或はまだ斧一つ入れられてない、深い處女森林地の傍を、そして幾つかのちつぽけな空虚な物寂しい驛々、少しは旅客のたて込む相當の驛々を通り過ぎた。 ※この作品は「近代デジタルライブラリー」にて読むことができます。→『涯なき路』(岡田三郎) 岡田三郎(1890-1954) | |
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『有難き老医』(五十嵐力/大正6年) (レビュー未) 『八重葎』(敬文堂書店/大正6年4月)所収 「有難き老醫」「八重葎の這ふまゝに」「或月の或日である」「詩三篇」「寄生木」「雄辯そゞろごと」「塵塚(歌集)」「ひこばえ(歌集)」 ※この作品は「近代デジタルライブラリー」にて読むことができます。→「有難き老医」(五十嵐力) 五十嵐力(1874-1947) | |
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『屋根裏の法学士』(宇野浩二/大正7年) 法学士の乙骨三作は、大学を卒業してから5年経った今も職をもっていない。小さな頃から文学に興味を抱いていたが、周囲の反対から文学の道へは進めず、半ば強制的に法学の道に進んだ。そんなものだから肩書きだけは法学士だが、実生活は文学書生のようなもの。根気も勇気もなく、常識に欠ける彼にとって、世間は何もかもが味気なく不快だった。彼の一日といえば、寝るか食べるか友人を訪ねるか。部屋の押し入れの上の段に敷いた万年床が彼のお気に入りの場所だ。押し入れの戸を開け、さらに部屋の窓を開け放しておくと、往来を見渡すことができる。彼は外を通る人たちを眺めるのが好きだった。 また、彼は寝ていて夢を見ないということがなかった。「おれは、力士になっても、決してさう弱い者にはなっていない筈だ」「おれはなぜもっと法律を身を入れてやっておかなかったろう」。そしてある日、宙を飛んでいる夢を見た。中学時代に幅跳びの名手だった彼は、目が覚めると下宿屋の廊下に出て、実際に飛べないものかと何度もむきになって挑戦するのだった。 宇野浩二の作品には「ダメ人間」がよく登場する。乙骨三作も高慢で自尊心が強いため、定職に就こうとせず、毎月おこなっていた田舎の母への仕送りも途絶えさせてしまうダメ人間。親類から手紙で、「お前が母親の面倒をろくに見ないからこちらで面倒をみる。だからこれからは夢にも母親に金をねだるな」と言われる始末だ。貧乏生活をしながら、毎日を無為に過ごす三作。夢ばかりに想いをはせる彼を、皮肉的にではなく好意的に描いているため、彼の堕落ぶりもユーモラスに見える。 後年、江戸川乱歩が自作『屋根裏の散歩者』のタイトルを、この作品からもじって付けたのは有名。乱歩自身、宇野浩二には多大な影響を受けたと書いている。 (2003.10.1/菅井ジエラ) 宇野浩二(1891-1961) 1919年、『蔵の中』で文壇に本格デビュー。その後、『苦の世界』を発表し作家としての地位を確立した。他の作品に『子を貸し屋』などがある。 | |
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『労働者誘拐』(江口渙/大正7年4月) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 上野で發車まぎはに、やうやく汽車に飛び込むことのできた私は、そのため列車が動き出した後までも、しばらくの間、荷物の整理に忙殺されてゐた。やがて溢れるやうな汗をふきながら、そばのガラス窓を開けたときには、汽車はもう荒川の鐵橋を渡るところであつた。 「いつ日暮里や田端を通つたのだらう」 成程汽車が二三度停車したのはおぼえてゐる。しかし慌てて無茶苦茶につめこんで來た手荷物のつめ直しに思はず沒頭してゐたために、いつの間にか時間がたつてしまつたのだ。さう思ふとわれながら妙にをかしくなつたので、私はうすら笑をおさへながら周圍を見廻した。 ※著作権が存続中です。問題があれば削除します。(菅井ジエラ) 江口渙(1887-1975) | |
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『新生』(島崎藤村/大正7年5月〜8年10月) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 序の章 一 「岸本君――僕は僕の近来の生活と思想の断片を君に書いて送ろうと思う。然(しか)し実を言えば何も書く材料は無いのである。黙していて済むことである。君と僕との交誼(まじわり)が深ければ深いほど、黙していた方が順当なのであろう。旧(ふる)い家を去って新しい家に移った僕は懶惰(らんだ)に費す日の多くなったのをよろこぶぐらいなものである。僕には働くということが出来ない。他人の意志の下に働くということは無論どうあっても出来ない。そんなら自分の意志の鞭(むち)を背にうけて、厳粛な人生の途(みち)に上るかというに、それも出来ない。今までに一つとして纏(まとま)った仕事をして来なかったのが何よりの証拠である。空と雲と大地とは一日眺(なが)めくらしても飽くことを知らないが、半日の読書は僕を倦(う)ましめることが多い。新しい家に移ってからは、空地に好める樹木を栽(う)えたり、ほんの慰み半分に畑をいじったりするぐらいの仕事しかしないのである。そして僅(わず)かに発芽する蔬菜(そさい)のたぐいを順次に生に忠実な虫に供養するまでである。 島崎藤村(1872-1943) | |
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『荊棘の路』(相馬泰三/大正7年6月) (レビュー未/以下は新潮社・新進作家叢書『夢と六月』の巻末に附された広告文) 湘南三浦半島の一角に村居せる若き芸術家の群れを題材とせるものにして、現文壇一面の記録とも称す可きほど新進作家の生活をさながらに描いて読者の興味極めて豊かなる傑作小説也。量は八百枚に近き長篇、随所に種々の問題を提出しつゝ各方面より作者の現代観を語ると共に、文学と文学者との関係を痛切に見、描ける点に於いて、文学に志ある人の必読せざる可からざるものたり。 (以下は作品の冒頭) 第一 一 六月の或る朝、三崎通ひの小蒸気船が、いつもと同じやうな時刻に、例のトツトツといふ、貧弱な、単調な音を静かな海面に響かせながら、今や東京湾の狭い湾口を出離れやうとしてゐた。 日は輝き、風は凪ぎ、海にはちかちかと陽炎が燃え立ち、暁方の小雨で濡れてゐた上甲板はいつか乾いて熱く照り返へしてゐた。曾根はその一番の突つ端(とっぱな)のところへ平たく腰をおろして、紙巻煙草をすぱすぱふかしながら、見るともなく四囲(あたり)の風光を眺めまはしてゐた。 お、お、お! 相馬泰三(1885-1952) | |
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『家長』(相馬泰三/大正7年) ある日の夜、針仕事をしながら夫を待つ妻と、母のそばで何かの本を読みつづける息子。 いつもなら、妹たちも一緒になって父が帰るまで待っているのだが、その日は朝からいろいろ働いて疲れたせいか、夕食を済ますとすぐに床に入ってしまった。 残る母と息子も眠気をもよおしていた。 柱時計が夜の11時を告げたが、父はまだ帰ってこない。 眠たそうな息子に向かって、「睡むたかったらおやすみ!」 と母は言ったが、息子が“飛んでもないことを!と言うような顔をするのを見て”黙ってしまった。 そして、まもなく人力車の音が聞こえ、主が帰ってきた…。 威厳ある父親像。果たして、今の時代にこんな父親(家長)は残っているのだろうか? (2007.5.26/菅井ジエラ) 相馬泰三(1885-1952) | |
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『羽織と時計(W・B君を弔う)』(加能作次郎/大正7年11月) 妻が枕元に置いて行った郵便の中にハガキが一枚、それは死亡通知だった。「父W・B」とある。名前を見ても、誰か思い出せないほど聞きなれないものだったが、本文を読んで思い出した。W・Bというのは、以前に一緒に勤めていたことのある男だった。そして追伸文を読み進むにつれ、「?」と思った。葬式の日取りが前々日になっていたからだ。 Wと私は、2人で一緒にある雑誌の編集をやっていた。Wが主任で私が助手。2人とも経済的に厳しい生活を送っていたが、私が会社に対して不満を口にしても、Wは今の生活を受け入れていた。 当時私は独身だったが、Wには妻子がいて、他にある不幸な事情から従妹をも養っていた。おまけに彼の妻は病身で、僅かばかりの月給ではやりきれないと思われた。 その後、Wは風邪をこじらせ肋膜炎を起こして、長期間会社を休むことになった。私は会社の人たちに声をかけて見舞金を集めて渡すと、彼はとても感謝した。 春になり暖かくなると、彼の病気は回復し会社に出勤できるようになった。義理堅い性格の彼は生活に困っているにもかかわらず、お礼だといって、私に紋入りの羽織をこしらえてくれた。そして、他によい働き口が見つかり、2年足らずで会社を辞める時には、同じ職場のみんなにお金を出してもらって、記念品として懐中時計をくれた。 Wとは、それっきり会っていなかった。というのも、羽織と時計、この2つがWと私とを遠ざけたようなものだったからだ。… Wにもらった羽織を着て、帯に懐中時計を巻いてWの家を訪れる私。Wの弟らしい男に案内されると、人間の住家とは思えないほど荒れ果てた、入るのも躊躇われるような部屋の隅に、病身のWの妻が臥せっているのだった。 Wの死で思い起こされる私の複雑な気持ちを描いた作品。 (2021.1.17/菅井ジエラ) ※この作品は「近代デジタルライブラリー」にて読むことができます。→『世の中へ』(加能作次郎) 加能作次郎(1885-1941) | |
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『反射する心』(中戸川吉二/大正7年12月) (レビュー未/以下は新潮社・新進作家叢書『地中海前後』の巻末に附された広告文) 一青年と一藝妓との恋愛事件を中心となし、作者得意の心理解剖を恐にす。敏感、胡蝶の鬚の如く、尖鋭、蓄音機の針の如き作者の神経と情緒とは、複雑なる恋愛心理の機微を描いて、一線を剰さず一点を過たず、まことに新しき心理小説、新しき恋愛小説として、現文壇に独特の地位を占むる作品と云ふを得可し。 (以下は作品の冒頭) 山村(やまむら)から直(す)ぐ來(こ)いと電報(でんぱう)がかゝつて來(き)たのは晝一寸(ひるちよつと)すぎだつた。直(す)ぐ私(わたし)は彼(かれ)の勤務先(つとめさき)の本屋(ほんや)へ行(い)つてみた。重見(しげみ)さんのうちへ、お夏(なつ)から電報(でんぱう)が來(き)てゐたといふのである。 「さつき用(よう)があつて重見(しげみ)さんのうちへ行(い)つたんだがね。すると電報(でんぱう)が來(き)てゐたんだよ。重見(しげみ)さんから、僕(ぼく)に持(も)つて行(い)つてくれろつて頼(たの)まれて持(も)つて來(き)たんだが、ヒヨツとすると今日(けふ)は僕(ぼく)、かへりが少(すこ)し晩(おそ)くなるかも知(し)れないと思(おも)つたから……」かう云(い)つて、山村(やまむら)は電報(でんぱう)を私(わたし)に手渡(てわた)してくれた。 「さうか、どうもありがたう」 中戸川吉二(1896-1942) | |
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『猫又先生』(南部修太郎/大正8年4月) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 高橋順介、それが猫又先生の本名である。 先生はT中學校の國語並に國文法の先生で、私達が四年級に進んだ年の四月に新任されたのである。而(しか)も、當然私達の擔任たるべく期待されてゐた歴史の杉山先生が、肺患が重つた爲めに辭任されたので、代つて私達のクラスを擔任されることになつた。 杉山先生は若かつたが、中學校の先生には稀に見る程の温かな人格者で、而も深い學識を持ちながら淡々たる擧措(きよそ)が一同の敬愛の的となつてゐた。故にその辭任の原因が肺患と知つた時にも、私達は先生と離れるのを幸福と思はなかつた。 そして一同涙ぐましい程失望した。猫又先生はこの失望の前に迎へられたのである。 講堂で催された新學期始業式の席上で、教頭が新任先生三人の紹介をした後、猫又先生は三人の最後に壇上に現れて、赤面しながら挨拶された。 先生の丈(たけ)は日本人並であつたが、髮の毛が赤く縮れた上に、眼が深く凹(くぼ)んでゐて、如何(いか)にも神經質らしい人に見えた。私達は擔任の先生であると聞いたので、特別の期待と好奇心を以て、先生の詞(ことば)に耳を傾けてゐた。 が、遠くに離れてゐた私達の眼に、先生の紫ずんだ唇が磯巾着(いそぎんちやく)のやうに開閉し、それにつれて左右に撥(は)ねた一文字髭が鳶(とび)の羽根のやうに上下するのが見えたかと思ふと、先生はもう降壇されてしまつた。 呆氣(あつけ)に取られたのは私ばかりではない。みんなきよとんとした眼で互に顏を見合せて、にやりと笑つた。私達は所屬の教室に退いて、今度こそは――と思ひながら、先生の到着を待つてゐた。 南部修太郎(1892-1936) | |
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『イボタの虫』(中戸川吉二/大正8年5月) 突然私は無理矢理兄に起こされた。机の上の置き時計を見ると7時半。2時間ほどしか眠れていない。 「兎も角起きろ」という兄に従うまま、着物を着替えて帯をしめ、何か話そうとすると、兄が恐い顔をして強い口調で言う。 「美代が悪いんだ。…昨夜一と晩で急にヒドく悪くなったんだ。肺炎だと云ふんだが、妊娠中のことでもあるし、もう駄目らしい。今日午前中持つかどうか……」 私は昨日、母から注意されたので姉を見舞ったが、その時はさして重体という感じではなかった。それが今では、医者がもう駄目だというほど重篤だという。 兄は熱海にいる父と花子のところへ電報を打ちに行く。そして私は母のたっての希望である薬を買いに行ってほしいと頼まれた。 「──広小路へ行ってね、イボタの虫ってものを買って来て貰ひたいんだ」 「イボタの虫って……」 「…売薬だがね、好く利く薬なんださうだ。母あさんが是非買って来いと云ふんだから、買って行けよ」 「だって、そんなもの……」 売薬の効果などを信じていない科学者の兄が、母の頼みを聞き入れようとしている。私は兄を気の毒に思わない訳には行かなかった。 そして、私は広小路のどの店に売っているかも分からない得体の知れない薬を買うために部屋を出た。 道中、私の脳裏によみがえる姉との思い出。そして姉との永遠の別れ。 情感たっぷりに描かれるこの作品は、大正文学の名作中の名作と呼んでもよい。 もっとたくさんの人に読んでもらいたい素晴らしい作品だ。 『イボタの虫』(新潮社・新進作家叢書18/大正8年)所収 「イボタの虫」「金を受取る話」「兄弟とピストル泥棒」「わかれ」「島で遇った画家」 (2007.3.26/菅井ジエラ) (以下は作品の冒頭) 無理に呼び起された不快から、反抗的に、一寸(ちよつと)の間(ま)目を見開いて睨(にら)むやうに兄の顔を見あげたが、直(す)ぐ又ぐたりとして、ヅキンヅキンと痛む顳(こめかみ)を枕へあてた。私は、腹が立つてならなかつたのだ。目は閉ぢはしてゐても。枕許(まくらもと)に立つてゐて自分を監視してゐるであらう兄の口から、安逸を貪(むさぼ)ることを許さないと云ふ風な、烈(はげ)しい言葉が、今にも迸(ほとばし)りさうに思はれてゐたのだ。 兄は併(しか)し、急(せ)き立てて私の名を呼びつづけようとはしなかつた。もう私が目を醒(さま)したのだと知ると、熟睡のあとの無感覚な頭の状態から、ハツキリした意識をとり戻し得るだけの余裕を、十分私に与へてやると云ふ風に暫(しばら)く黙つてゐた。で、流石(さすが)に私も寝床に執着してゐる自分が恥ぢらはれて、目を見開いて了(しま)はうとするのだつたが、固く閉ぢられてゐた私の瞼(まぶた)は、直ぐには自分自身の自由にもならなかつた。ともすると兄の寛大に甘えて危く眠り落ちさうになつてゐた。 「起きろよ」 突然に又兄の鋭い声がした。劫(おびや)かされたやうに、私は枕から顔を放して、兄の顔を視守(みまも)つた。二言三言眠り足らない自分を云ひ訳しようとでもする言葉が、ハツキリした形にならないまま鈍い頭の中で渦(うづ)を巻いてゐた。 「いま――何時なの」 やがて、かう訊(き)いたのだ。が、併し、兄はそれには答へなかつた。私は一寸てれて机の上の置時計を見た。七時半であつた。 「二時間位しか、眠りやしない……」 私は半分寝床から体を這(は)ひ出しながら、口を尖(とが)らせながら、呟(つぶや)くやうに云つた。さう云ふ私を、兄は非難しようとさへしなかつた。 「兎(と)も角(かく)起きろ。――起きて、着物を着かへてキチンと帯をしめろ、たいへんなことになつたんだ」 中戸川吉二(1896-1942) | |
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『地中海前後』(三島章道/大正8年9月) (レビュー未/以下は作品の冒頭) (一) 「それぢやさよなら……」 「さやうなら」 運動(スポート)で鍛へられた逞しい叔父の手を、花車(きゃしゃ)な手で強く握りかへした清春は、暫くそれを離さうともしなかつた。清春は淋しい顔で、ぢつと叔父の面差(おもざし)を凝視(みつ)めて居ると萬感が胸にこみ上げて来た。そして眼には早くも涙が浮むで来て、この車窓にわつと泣き倒れたいと思つた。叔父も彼の手を離さなかつた。涙ぐむだ眼で彼の顔をのぞき込むで居た。西洋人なら此時二人は、堅く抱き合つて接吻したのであらう。叔父の顔には同情の波が寄せては打ちかへして居た。 三島章道(1897-1965) | |
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『赤潮』(大橋青波/大正8年) (レビュー未/以下は、春江堂刊『赤潮』の冒頭に附された名古屋新聞社主幹 與良雲生による序) 大橋青波君か新聞記者生活は可成り長いもので在つた。而して君の文の絢爛であつた事と、且つ健筆家で在つた事は同業者間でも評判ものゝ一つであつた。殊に君は新聞記者と云ふ忙しい職にありながら、旺盛な元氣は傍ら筆を小説に染めて、新聞に雑誌に公にして居たが、多年の薀蓄と経験は各篇の上に顕はれ読者の歓迎する所であつた。君は其後新聞社を辞し、上京して専ら創作に従事されたが、我社が君に請ふて名古屋新聞社上に掲載した小説は数篇在つた中にも、此の「赤潮」一篇は、着想の奇抜なること、事件の開展に限りない興趣を帯び、且つ波瀾に富んだ搆想は読者の大歓迎を博した處の佳篇で「新聞小説界近來の傑作として推奨すべきものである。青波君の作物に対しては世既に定評あれば多く云ふべきでないが、今本篇刊行に際し、此の飾らざる事実を述べて、読者に告げるのは強ち無用であるまいと思ふ。 大橋青波( - ) | |
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『追ひかける話と追ひかけられた話』(中戸川吉二/大正8年12月) 文芸雑誌「新創作」の主任記者である田山清は、いつもの春仙堂の2階に出勤すると、Aという男が彼を待ちかまえていた。 Aはある大新聞の社会記者で、田山とは1、2度どこかで遭ったにすぎない間柄だったが、彼はひどく親しげに田山に話しかけてくるのだった。 Aが話題にしたのは、当時全国紙を賑わしていた葉子事件のことだった。 “伯爵花川家の息女葉子が、養子の夫をすてゝ、抱えの自働車運転手と千葉へ逃げ、心中しそくなつた事件” その後、葉子は千葉の病院に入院していたが、各紙とも彼女が病院から出てくるところをキャッチしようと躍起になっているのだ。 「さうかね。そんなにまでにして何処の社でもあの事件は書き立てずにゐられなかつたものかね…」 Aは話を続ける。 「…僕も、失敗には失敗しちまつたけれども、花々しい活動の主人公でもあつたんですからね……」 「花々しい活動の主人公。──一体、どうしたんです」 「たいへんな騒ぎさ。悪漢追跡の一幕を演じたんですよ……」 「悪漢追跡だって……」 こうして、Aの“追ひかける話”が始まるのだった。… …そして、今度は田山が話し始める。 「自動車で追ひかけたと云えば、君のとは逆な運命の話で、痛快な話をきいたことがありますよ」… Aが語る“追ひかける話”と、田山が語る“追ひかけられた話” どちらも自動車やオートバイがまだ珍しかった頃ならではの話だ。 『青春』(太陽堂/大正10年)所収 「晩春」「義兄」「追ひかける話と追ひかけられた話」「結婚の空想」「伊香保火事」「清子」「二夫婦半」 (2007.10.21/菅井ジエラ) 中戸川吉二(1896-1942) | |
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『性に目覚める頃』(室生犀星/大正8年) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 大正八年十月 私は七十に近い父と一しょに、寂しい寺領の奥の院で自由に暮した。そのとき、もう私は十七になっていた。 父は茶が好きであった。奥庭を覆うている欅(けやき)の新しい若葉の影が、湿った苔の上に揺れるのを眺めながら、私はよく父と小さい茶の炉を囲んだものであった。夏の暑い日中でも私は茶の炉に父と一緒に坐っていると、茶釜の澄んだ奥深い謹しみ深い鳴りようを、かえって涼しく爽やかに感じるのであった。 父はなれた手つきで茶筅(ちゃせん)を執ると、南蛮渡りだという重いうつわものの中を、静かにしかも細緻な顫(ふる)いをもって、かなり力強く、巧みに掻き立てるのであった。みるみるうちに濃い緑の液体は、真砂子(まさご)のような最微な純白な泡沫となって、しかも軽いところのない適度の重さを湛えて、芳醇な高い気品をこめた香気を私どものあたまに沁み込ませるのであった。 室生犀星(1889-1962) | |
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『途上』(谷崎潤一郎/大正9年1月) 東京T・M株式会社の人事課で働く湯河勝太郎が会社帰りに新橋方面に向かって散歩していると、風采の立派な紳士に声をかけられた。この男は、湯河の親友である渡辺から紹介を受けたと言って、自分の名刺とともに、彼に渡辺の名刺を差し出した。名詞の一枚は紛れもない渡辺の名刺で、渡辺自身の筆跡で安藤に関する紹介文が記されている。そしてもう一枚、安藤の名刺には“私立探偵”と肩書きがあった。 安藤は湯河が勤める会社を訪ねて面会をお願いしてきたところだが、少し時間をもらえないかと聞く。湯河は「僕で分かることなら、何なりと…」と答えるが、できれば今ではなく、明日にしてほしいと言った。しかし、安藤は「御迷惑でも少しこの辺を散歩しながら話して戴きましょう」と、幾分強引だった。 「…或る個人の身元に就いて立ち入ったことをお伺いしたいのですから、却って会社でお目に懸るよりも往来の方が都合がいいのです。…」 湯河も安藤と話しているうちに、家などに探偵の名刺を持ってこられるのもよくないと思い、彼の提案に同意した。 湯河は安藤がどうして自分の元にやって来たのか大体想像がついた。 「…その男が結婚すると云うので身元をお調べになるのでしょうな」 「ええそうなんです、御推察の通りです」 「…一体誰ですかその男は?」 湯河は人事課というポスト上、安藤のような立場の人間によく会う。だが、今回はそれらとは少々事態が異なっていたのだ。 「…そうおっしゃられるとちょっと申しにくい訳ですが、その人と云うのは実はあなたですよ。あなたの身元調べを頼まれているんですよ。…」 “プロバビリティ(可能性)の犯罪”を扱ったものとしてよく知られている作品。刑事コロンボ的なところがあるような、ないような…。 (2006.5.6/菅井ジエラ) (以下は作品の冒頭) 東京T・M株式会社員法学士湯河(ゆがわ)勝太郎が、十二月も押し詰まった或(あ)る日の夕暮の五時頃に、金杉橋の電車通りを新橋の方へぶらぶら散歩している時であった。 「もし、もし、失礼ですがあなたは湯河さんじゃございませんか」 ちょうど彼が橋を半分以上渡った時分に、こう云って後ろから声をかけた者があった。湯河は振り返った、―――すると其処(そこ)に、彼には嘗(かつ)て面識のない、しかし風采(ふうさい)の立派な一人の紳士が慇懃(いんぎん)に山高帽を取って礼をしながら、彼の前へ進んで来たのである。 「そうです、私(わたくし)は湯河ですが、………」 湯河はちょっと、その持ち前の好人物らしい狼狽(うろた)え方で小さな眼をパチパチやらせた。そうしてさながら彼の会社の重役に対する時のごとくおどおどした態度で云った。なぜなら、その紳士は全く会社の重役に似た堂々たる人柄だったので、彼は一と目見た瞬間に、「往来で物を云いかける無礼な奴(やつ)」と云う感情を忽(たちま)ち何処(どこ)へか引込めてしまって、我知らず月給取りの根性をサラケ出したのである。 谷崎潤一郎(1886-1965) 1910年、小山内薫、和辻哲郎らと第二次「新思潮」を創刊し、「刺青」「麒麟」などを次々と発表。永井荷風に激賞され、本格的に文壇に登場。デビュー当初「耽美派」「悪魔主義」といわれ、生涯にわたって官能的な日本女性美を追求した彼の作品は欧米でも人気が高い。代表作に『痴人の愛』『蓼食う虫』『春琴抄』『細雪』などがある。 | |
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『小僧の神様』(志賀直哉/大正9年1月) 仙吉は神田のある秤屋に奉公している小僧。 ある秋の日、一人の客もいない店内で番頭ふたりが話をしているのが耳に入ってくる。 「おい、幸さん。そろそろお前の好きな鮪の脂身が食べられる頃だネ」 「ええ」 「今夜あたりどうだね。お店を仕舞ってから出かけるかネ」 番頭たちは鮨屋の話をしていた。話に出た店は、仙吉が使いによく行くところだったので彼も知っていた。 仙吉は早く自分も番頭になって、美味しい鮨を食べられるような身分になりたいと思っていた。 それから2、3日経った日のこと。仙吉は電車賃を持たされて使いに出た。彼は片道分だけ切符を買って、帰りは歩いて帰るということをよくしたが、その日もそうして、懐に4銭残した。 「4銭あれば、ひとつ食えるが、一つ下さいとも云われないし」 仙吉は一度あきらめたが、どうしてもあきらめきられず、偶然見つけた鮨屋の方へ歩き出した。 一方、こちらは貴族院議員A。同じ議員仲間のBに屋台のうまい鮨屋を教わっていたAは、その日行ってみることにした。店に着くと、中にはすでに3人の客がいたが、すこし躊躇した後思い切って入ってみた。人と人の間に割り込んで食べる気がしなかったので、しばらくの間彼らの後ろに立っていたのだが、その時、不意に年の頃が13〜14歳の小僧が入ってきてAの前のわずかな隙間に立つと注文した。 「海苔巻はありませんか」 「ああ今日は出来ないよ」 小僧は少し思い切った様子で手を伸ばし、前に3つほど並んだ鮪の鮨を1つ摘む。しかし、「一つ6銭だよ」という店主の言葉に気を落として、その鮪を元の場所へ戻した。 「一度持ったのを置いちゃあ、仕様がねえな」 小僧は店の外へ出ていった。 Bにその日のことを話し、小僧をどうかしてやりたいと思ったが、結局は何もしてやれなかったと悔やむA。 しかしある日、自分の子どものために、風呂場へ備え付けるための体重計を買おうと立ち寄った秤屋で小僧を見つけると、……。 志賀直哉による最良のファンタジー作品とでも言おうか。 この作品により、志賀直哉は“小説の神様”という称号を得た。 (2007.1.4/菅井ジエラ) ※本誌内企画“志賀直哉を読む”より再掲。 志賀直哉(1883-1971) 詳細は本誌内企画“志賀直哉を読む”ページをご覧ください。 | |
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『若き日』(加能作次郎/大正9年) (レビュー未/以下は新潮社・新進作家叢書『涯なき路』の巻末に附された広告文) 近時稀有の長篇恋愛小説也。五百七十頁の大巻を満たすものは恋の幾事件也。一人の男を取りまく種々の女性によりて次ぎより次ぎへと起る恋の種々相が、著者の魅力ある筆によりて細描せられたり。 加能作次郎(1885-1941) | |
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『舞踏会』(芥川龍之介/大正9年) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 一 明治十九年十一月三日の夜であつた。当時十七歳だつた――家(け)の令嬢明子(あきこ)は、頭の禿げた父親と一しよに、今夜の舞踏会が催さるべき鹿鳴館(ろくめいくあん)の階段を上つて行つた。明(あかる)い瓦斯(ガス)の光に照らされた、幅の広い階段の両側には、殆(ほとんど)人工に近い大輪の菊の花が、三重の籬(まがき)を造つてゐた。菊は一番奥のがうす紅(べに)、中程のが濃い黄色、一番前のがまつ白な花びらを流蘇(ふさ)の如く乱してゐるのであつた。さうしてその菊の籬の尽きるあたり、階段の上の舞踏室からは、もう陽気な管絃楽の音が、抑へ難い幸福の吐息のやうに、休みなく溢れて来るのであつた。 明子は夙(つと)に仏蘭西(フランス)語と舞踏との教育を受けてゐた。が、正式の舞踏会に臨むのは、今夜がまだ生まれて始めてであつた。だから彼女は馬車の中でも、折々話しかける父親に、上(うは)の空の返事ばかり与へてゐた。それ程彼女の胸の中には、愉快なる不安とでも形容すべき、一種の落着かない心もちが根を張つてゐたのであつた。彼女は馬車が鹿鳴館の前に止るまで、何度いら立たしい眼を挙げて、窓の外に流れて行く東京の町の乏しい燈火(ともしび)を、見つめた事だか知れなかつた。 芥川龍之介(1892-1927) | |
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『顔を斬る男』(横光利一/大正10年) 金六は東京から京都の姉夫婦の所へやってくる。 そして、義兄と一緒に釣りをしていると、春先という季節がらとそういう年頃のせいだろうか急に性的な興奮を覚える。 金六は結婚以前に、恋人もいないし、恋自体したことがないことが問題なのだと考える。 金六は姉に杓子顔をしていると言われたことを気にしながら、風呂屋に行けば番頭にいる若い娘にすぐに惚れるものの、杓子顔を見られたくないという素振りをする。 風呂屋から戻ってくると、姉と娘の三重子と三人で活動写真を見に行く。 まだ、幼い三重子が前の客にいたずらしているのを見て、金六は恥ずかしさのせいで他人の素振りをしようとしたり、 目線の先にいる娘が自分の方を見ているのに気づいて、自分に恋をしているのではないかと思う。 芝居が山場に差し掛かった頃、三重子の姿を見失う。 しばらくして物音がした後、三重子が泣き叫ぶ声を共に姉がやってきて、 三重子の眼がガラスでつぶれたから、早く義兄に知らせてほしいと金六に言う。 金六は家に駆けていく途中、三重子が怪我をした原因は自分にあると思い込み、 二十年間三重子が大きくなるのをまって結婚しようと考える。 三重子の怪我に対して相当思いつめながらようやく姉夫婦の家にたどりついた金六は、 釣った魚のモロコの調理を終えて小皿にのせて現れた義兄を無視して、台所に向った。 金丸は包丁を手に取ると、包丁の刃で自分の頬に傷をつけて血を垂らしながら自分に向って、 「なぜ悲しいんだ!なぜ悲しいんだ!」と自分の不潔さを攻め立てるのだった。 物凄く短い短編で、描写とかディテールは悪くないのだが、 題材からストーリー、登場人物に到るまで全て最悪の作品。 もてない男が悶々としていて、自分がもてない原因は自分の杓子顔のせいにして 本当の自分と向き合うことをせずに逃げてばかりいて、 あげくのはてに偶然の事故で怪我をした赤ん坊の姉の娘の将来を慮って、 自分の嫁にしようと考えたけど、やっぱり自分にはそんな勇気がないというので 気分が変になって顔を斬るという話なんだが・・ まあ、意味が分からなくはないんだが、 横光さん、こんな話はないんじゃないの? (2006.7.15/A) 横光利一(1898-1947) 福島県出身。「ナポレオンと田虫」「春は馬車に乗って」などすぐれた短編を数多く残している。代表作に『家族会議』『旅愁』など。 | |
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『三等船客』(前田河広一郎/大正10年8月) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 一 「あれ、擽(くすぐ)ったい。」 はねのけるように癇高(かんだか)な、鼻のひくい、中年期の女のみが発し得る声が、総体にゆらゆらと傾いた船室の一隅からひびいた。女の姿は何かの蔭になつて見えなかつたが、男は前のめりに動いた姿だけ、汚らしい壁の上に、不自然な暴動の影を投げて、崩れるやうに暗い方へ消えてしまつた。 「畜生、ふざけてやアがる。」 かなりな距離ではあつたが、さつきからその暗隅を見すかしていた偏目(かため)の男は、巻煙草(まきたばこ)の端を上のベッドから床へ投ると同時に、もうじつとして見ては居られぬという風な性急な言葉を吐いた。 そのわきに、ベッドに匍匐(はらばい)になつて講談本を読んでいた男も、その時、むつくり頭をあげて、偏目の男の熟視している方を眺めたが、すぐつまらなささうに横を向いて、髯(ひげ)の中で嗤(わら)つた。 「ハワイへ着いたら尻尾(しっぽ)を出すよ。」 偏目の男は、向き直つて対手(あいて)に何か言いかけやうとした刹那(せつな)、 「わたし、もう立つの。つまらない。ちよつとそこを通してさ。」 前田河広一郎(1888-1957) | |
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『怒れる高村軍曹』(新井紀一/大正10年8月) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 一 消燈喇叭(らつぱ)が鳴つて、電燈が消へて了(しま)つてからも暫くは、高村軍曹は眼先きをチラ/\する新入兵たちの顔や姿に悩まされてゐた。悩まされてゐた――と云ふのは、この場合適当でないかもしれない。いざ、と云ふ時には自分の身代りにもなつて呉れる者、骨を拾つても呉れる者、その愛すべきものを自分は今、これから二ヶ年と云ふもの手塩にかけて教育しようとするのであるから。 一個の軍人として見るにはまだ西も東も知らない新兵である彼等は、自分の仕向けやうに依つては必ず、昔の武士に見るやうに恩義の前には生命をも捨てゝ呉れるであらう。その彼等を教育する大任を――僅か一内務班に於ける僅か許(ばか)りの兵員ではあるが――自分は命じられたのだ。かう思ふ事に依つて高村軍曹は自分が彼等に接する態度に就ては始終頭を悩まされてゐた。で、眠つてる間にもよく彼等新兵を夢に見ることがあつた。彼はどんな場合にも、自分の部下が最も勇敢であり、最も従順であり、更に最も軍人としての技能――射撃だとか、銃剣術だとか、学術に長じることを要求し希望してゐた。 新井紀一(1890-1966) | |
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『私』(谷崎潤一郎/大正10年) (レビュー未/以下は作品の冒頭) もう何年か前、私が一高の寄宿寮にいた当時の話。 或る晩のことである。その時分はいつも同室生が寝室に額を鳩めては、夜おそくまで蝋勉と称して蝋燭をつけて勉強する(その実駄弁を弄する)のが習慣になっていたのだが、その晩も電燈が消えてしまってから長い間、三、四人が蝋燭の灯影にうずくまりつつおしゃべりをつづけていたのであった。 その時、どうして話題が其処へ落ち込んだのかは明瞭でないが、何でも我れ我れはその頃の我れ我れには極くありがちな恋愛問題に就いて、勝手な熱を吹き散らしていたかのように記憶する。それから、自然の径路として人間の犯罪と云うことが話題になり、殺人とか、詐欺とか、窃盗などと云う言葉がめいめいの口に上るようになった。 「犯罪のうちで一番われわれが犯しそうな気がするのは殺人だね」 と、そう云ったのは某博士の息子の樋口と云う男だった。 谷崎潤一郎(1886-1965) 1910年、小山内薫、和辻哲郎らと第二次「新思潮」を創刊し、「刺青」「麒麟」などを次々と発表。永井荷風に激賞され、本格的に文壇に登場。デビュー当初「耽美派」「悪魔主義」といわれ、生涯にわたって官能的な日本女性美を追求した彼の作品は欧米でも人気が高い。代表作に『痴人の愛』『蓼食う虫』『春琴抄』『細雪』などがある。 | |
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『船医の立場』(菊池寛/大正10年) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 一 晩春の伊豆半島は、所々(しょしょ)に遅桜(おそざくら)が咲き残り、山懐(やまぶところ)の段々畑に、菜の花が黄色く、夏の近づいたのを示して、日に日に潮が青味を帯びてくる相模灘が縹渺(へうべう)と霞んで、白雲に紛(まぎ)れぬ濃い煙を吐く大島が、水天の際(きわ)に模糊(もこ)として横たわつているのさえ、のどかに見えた。 が、さうした風光のうちを、熱海から伊東へ辿る二人の若い武士は、二人とも病犬か何かのやうに険しい、憔悴(しょうすい)した顔をしていた。 二人は、頭を大束の野郎に結つていた。一人は五尺一、二寸の小男だつた。顔中に薄い痘痕(あばた)があつたが、目は細く光つて眦(まなじり)が上り、鼻梁(はなばしら)が高く通って、精悍(せいかん)な気象を示したが、そのげっそりと下殺(しもそ)げした頬に、じりじり生えている髭(ひげ)が、この男の風采を淋しいものにした。一人は色の黒い眉の太い立派な体格の男だつたが、憔悴していることは前者と異らない。 小男は、木綿藍縞(もめんあいじま)の浴衣(ゆかた)に、小倉の帯を締め、無地木綿のぶっさき羽織を着、鼠小紋の半股引(はんももひき)をしていた。体格の立派な方は、雨合羽(あまがっぱ)を羽織つているので、服装は見えなかつた。 小男の方は、吉田寅二郎(とらじろう)で、他の一人は同志の金子重輔(じゅうすけ)であつた。 菊池寛(1888-1948) | |
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『島原心中』(菊池寛/大正10年) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 自分は、その頃、新聞小説の筋を考えていた。それは、一人の貧乏華族が、ある成金の怨みを買って、いろいろな手段で、物質的に圧迫される。華族は、その圧迫を切り抜けようとして?(あが)く。が、?(あが)いたため、かえって成金の作っておいた罠(わな)に陥って、法律上の罪人になるという筋だった。 自分は、その華族が、切羽詰って法律上の罪を犯すというところを、なるべく本当らしく、実際ありそうな場合にしたかった。通俗小説などに、ありふれたような場合を避けたかった。自分は、そのために法律の専門家に、相談してみようと考えた。 菊池寛(1888-1948) | |
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『微光』(加能作次郎/大正10年10月) 東北の山の中から上京し、ある家の下女として働くお玉。17の歳から5年間、“神妙に忠実に”働き続けてきた。 彼女は“極めて醜い無格恰”で“よほどの気まぐれな男でゞもなければ、一寸手を出す気にはならないであらうと思はれる位”だった。 彼女自身も自分の醜いことを自覚していたが、やはり“人並の幸福な生活が出来さうにない”と考えると悲しくなった。 そんなお玉も、お使いなどで町を歩くと、若い娘や綺麗な女性に目がいく。 すると、向こうもお玉を見返すのだが、お玉にはその目が彼女の醜さを嘲笑っているように思えてならなかった。 それはお祭りの日のこと。赤ん坊をおんぶして境内に遊びに行った時に起こった。 お玉は“揉まれるような人込みの中で”茶番を見ていると、彼女の右手が知らない誰かの手に触れた。 そして最初は分からなかったが、その手は意識的にだんだん強く彼女の手を握ってくるのだった。 お玉は振り返って、自分の手を握る男の顔を確かめたかったが、どうしても振り返って見ることができない。 “顔がぽつとほてつて来るのを感じた”。……。 “みにくい”“汚い”“醜女”“全体が不具”…。 容姿に対する差別的な表現が数限りなく出てきて、特に冒頭のくだりなどは、「これはあまりにも…」と思ってしまう内容だが、 物語の主人公であるお玉は、その状況をすべて受け入れて生きようとする。 話は、そこに“ほの明るい幸福の微光”が輝き始めると結ばれるが、今の時代、少なくとも私の感覚では合点がいかない。 つまり、これは大正という時代ならではの作品ということになるのだろうか。 『微光』(愛文閣/大正11年)所収 「純情」「微光」「夢想家」「拳銃」「泥棒除け」「復讐」「水は流れる」「気休め」「喜ばしき夢」「頓智」「父の顔」 (2007.10.17/菅井ジエラ) 加能作次郎(1885-1941) | |
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『父の出郷』(葛西善蔵/大正10年12月) 息子のFを、妻の郷里に帰して過ごさせてやろうと思った。 この夏からずっと私は病気と貧乏のため惨めな生活を送っていたので、 母や妹たちがいるところで情愛に包まれた暮らしを送らせてやろうと思ったのだ。 もっとも、妻も長女も、さらに二女の雪子は入院騒ぎを起こしていた。 また、夏に義母がなくなって以来、残された義父の消息も気がかりだった。 思えば、昨年の春に私を訪ねてきてくれた従兄のKは12月になくなった。今年の春に伯母と一緒に来てくれた義母は両眼失明になり、惨めな死に方をした。そしてこの春に突然やってきた従弟のTは、つい2、3日前に北海道のある市の未決監から葉書をよこした。 中学の入学試験を控えるFには大変申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、弟に頼んでFを引き取りにきてもらうことにした。 「母さんとこで二三日遊んだら、祖父さんの方へ行ってすぐ学校へ行くようにせ。僕もぢきに帰る。どつちにしてもお前の入学試験時分までには帰るから、どこに居つても意気地なくかゝつて泣いたりするな」 その当日。いきなり一通の電報がきた。差出人が妻になっていたので、 私は思わず息をのみ、“雪子が死んだ…”と思って封を切る手がふるえてしまった。 電報にはこう書いてあった。 “─チチシスアサ七ジウヘノツク─” 父が死んだ? それで明日の朝に妻が出てくる? 父が死んで、妻が出てくるというのも変な話だが、とにかくただ事でないことだけは確かだ。 今日のFの帰郷は、ひとまず取りやめることにした。……。 貧困な生活の中で起こったある事件が、彼の気持ちをさらに暗くさせるのだった。 (2007.10.25/菅井ジエラ) 葛西善蔵(1887-1928) 青森県弘前市出身。大正元年に処女作である「哀しき父」を発表。その後、数々の“私小説”を著している。代表作に「子をつれて」「椎の若葉」など。 | |
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『ある迷宮の舞踏者』(塚原健二郎/大正10年4月) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 或友への手紙 G君、僕が君の住む街を去つて今や二度目の春が廻つて來ようとしてゐる。あれから‥‥千九百十九年四月十二日の朝、君や、それからTやYドクトルや新聞社のO君やに送られて、亮平の一家と共に日向に旅立つてから‥‥氣が向くと、可成多辯になれる性質の僕もすつかり默り込んで了つて、どんなに君達が僕の胸の扉をノックして、もう一度君達の群へ引き戻さうと努めても頑にも僕は凝乎と押しだまつて、鎖した胸の扉を開かうとはしなかつた。別けてもYドクトルからは不可解な僕の沈默に對して、可成り劇しい批難の手紙をも受け取つた。實際僕にしても時として、此の長い/\沈默が非常に苦しく、又無精に寂しいものに思はれて、一思ひに君達の住むあの山の上の街に飛び歸つて、君達の手を取つて話かけたい衝動に驅られたことも幾度だつたらう‥‥其度、僕はともすれば陷ちようとする此センチメンタルな氣持から、じつと自分を、凡てのものを傍觀者の冷めたい眼で見ようとする現在の自分にまで、引き上げ、引き上げして來たのだ。何故なら‥‥それは一を知つて貰ふために十の誤解を招くやうな結果を作ることを恐れたから、實際君達に別れてから今日までの僕の經験した心の記録は、一朝一夕で知つて貰ふには餘りにも傷しく、餘りにも複雑なものであつたのだ。‥‥ 『ある迷宮の舞踏者』(アルス/大正11年1月)所収 「血に繋がる人々」「ある迷宮の舞踏者」「靜かなる朝」「傷ましき場面」「ある反抗児の手紙」「久遠の恋人」 塚原健二郎(1895-1965) | |
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『靜かなる朝』(塚原健二郎/大正10年9月) (レビュー未) 『ある迷宮の舞踏者』(アルス/大正11年1月)所収 「血に繋がる人々」「ある迷宮の舞踏者」「靜かなる朝」「傷ましき場面」「ある反抗児の手紙」「久遠の恋人」 塚原健二郎(1895-1965) | |
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『切支丹ころび』(高倉輝/大正10年) (レビュー未) 『女人梵殺』(アルス/大正11年1月・装幀:恩地孝四郎)所収 「焔まつり」「孔雀城」「切支丹ころび」 高倉輝(1891-1986) | |
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『歩み』(生田蝶介/大正10年) (レビュー未) 『歩み/生田蝶介創作集』(博文館/大正10年)収載作品 「疊屋の二階」「舊道」「巷に出て」「連れ歸った弟」「一時は燃ゆる」「惱ましき頃」「家持つ前」「周圍は動く」「氣管支カタル」「今戸の家」「歸省せぬ保太郎」 生田蝶介(1889‐1976) | |
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『芭蕉と遊女』(灰野庄平/大正11年) (レビュー未) 『秦の始皇:外5篇』(新潮社・現代脚本叢書:7編/大正11年1月)所収 「秦の始皇」「芭蕉と遊女」「義隆の最後」「ザヴィエーの晴着」「少年の道徳」「墓の前」 灰野庄平(1887-1931) | |
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『犬』(中勘助/大正11年) クサカという町から少し離れた森の中にひとりのインド教の苦行僧がいた。 元は町中に住んでいたが、回教軍がやってきて町を跡形もなく焼き払ったため、森の中に草庵を作って信仰をつづけていたのだ。 彼の年齢は50前後といったところか。 苦行のためか“白髪まじりの髪は脳天まで禿げあがり”、“睫毛のない爛れ眼がどんよりと底光り”をしていた。 ところで、毎日、日の暮れる頃になると決まって草庵のそばを通り過ぎるひとりの若い百姓娘がいた。 年齢は17。境遇は良くなかったが、“丈夫に生れついた身体は必要上めきめきと発達”していた。 ある日のこと。僧が苦行を終えてちょうど立ち上がろうとする時、その彼女が通りかかった。僧は声をかけた。 「これ女、そなたは毎日なにをしにくるのじゃ」 「猿神様へ願がけにゆくのでございます」 「それはどういう願をかけに」 「この子の親にあいたいのでございます」 聖者は女の言葉に愕然とし、問いつめた。 すべてを話し尽くした彼女によれば、以前、回教徒がクサカの町に宿営した際、1人の従者を連れた若い隊長に陵辱され身ごもった。しかもその男を愛してしまったという。 彼女の話を聞き、怒りに震えた僧は、憎き邪教徒に嫉妬を覚えた。 「そちの罪業は深いぞよ。明日から七日のあいだ今日の時刻に湿婆(シバ)にお詫びをしにこい、必ず忘れるなよ。さあ帰れ。穢れた奴」 彼女は次の日から“邪教徒の天幕よりも怖い聖者の草庵”に通い、僧に教えられた通り“罪をゆるして、身を浄めて”と祈った…。 その後、嫉妬に狂った苦行僧は若い回教徒の男を毘陀羅法(びだらほう)で呪い殺し、女と自分を犬の姿に変え、これまでの信仰をあっさりと捨てて肉欲に溺れる。 何ともエログロな話だが、この続きがある。 僧犬となった男の子どもを産んだ女は、自分の乳をあげながら育てる。しかし、ある日のこと…。 この作品が初めて雑誌に掲載された際、その雑誌が発売禁止になったというが、昔ならそれも分からなくはない。 それほど衝撃的な内容だと思うが、その衝撃以上に、この作品で著者が訴えようとしているテーマは途轍もなく大きい。 (2007.10.5/菅井ジエラ) 中勘助(1885-1965) | |
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『お富の貞操』(芥川龍之介/大正11年5月) 明治元年のある日、上野界隈の町屋は住民たちが戦禍を恐れ立ち退き閑散としていた。 新政府軍が彰義隊を攻撃するために戒厳令を出した為だった。 ところが、下谷町二丁目の小間物店では物音がしていた。 主人たちが逃げ去った後、飼い猫の牡の三毛猫が置き去りにされていたのだ。 そこに、雨に濡れた乞食の新公が誰もいないことをいいことに上がりこんできた。 乞食の新公は馴染みの三毛猫を撫でた後、短銃を手に取って弾薬を装てんし始める。 すると、小間物店の娘・お富が置き忘れた三毛猫を連れ戻しに一人で帰ってきた。 新公はお富の若い色香に魅了されつつ戻ってきた事情を聞いていると、 こんな時に猫ごときを助けに戻ってくるなんて若い女がするもんじゃないと 照れくささから説教を垂れる。 ところが、説教くさい新公に苛立ったお富は突然感情的になって傘で新公を殴りだすのだった。 結局、新公は懐にしまっていた短銃を取り出すことになり、お富は大人しくなる。 新公は三毛猫を短銃で撃ち殺さない代わりに、お富の体を抱く約束をするのだった。 新公は茶の間でお富が帯を解き畳の上で寝ころがった音を確認すると、 茶の間に足を踏み入れるが、新公はお富の姿を一瞬見てすぐに台所へ引き返してしまう。 そして、猫を助け出すために一人で戻ってきたお富の勇敢さに感心した新公は大人しく家から出て行くのだった。 明治23年、上野広小路では博覧会の開会式が行われ、政府の高官らを乗せた馬車や人力車が行きかっていた。 夫と子供たちと一緒に見に来ていたお富は、馬車に乗っている新公と目が合う。 新公の胸元は数々の名誉の標章や勲章で埋め尽くされていた。 (2006.6.26/A) 芥川龍之介(1892-1927) | |
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『三つの指紋』(松本泰/大正11年) (レビュー未/以下は金剛社・松本泰秘密小説著作集第一編『三つの指紋』の巻末に附された、同著作集に関する広告文) 日本では通俗的な探偵小説などを作ることを卑しめてゐるやうな風があるが、それは間違つてゐる。一口に探偵小説といふけれど、欧洲の傑れた斯の種の小説には、日本の芸術的小説などと自ら吹聴するものや甘い家庭小説や雑誌小説などの足元へも寄りつけぬ深刻な人間味や社会相や詩がある。著者は三田文学の俊髦であるが、今回奮然文壇の陋習を捨てゝ日本で初めての創作探偵秘密小説を世に問ふことになつた。著者英京倫敦に滞留する事前後五年、具さに欧米の天地を巡遊して、材を世界各地に採り、社会生活の暗面と陰微とをその筆に上す。 第一編 三ッの指紋 第二編 呪の家 以下続刊 通俗小説必ずしも通俗卑劣なるものにあらず、芸術的創作と銘を打ちたるもの一片の駄文に過ぎざる事間々多し。日本の芸術家と称し且つ呼ばるゝ士の作品に欧洲の作家を巧みに模倣してゐるもの数ふるに堪えざる可し。之等の鑑賞眼は一二の批評家のみに委しく置くは余りに無智なり。読者自身其明を持して鑑賞せざる可からず。本書自ら秘密小説創作集として著者信ずる所あり、書肆いさゝか冒険的にこの書を読者の机上にま見えて其鑑賞を託さんとす。敢て江湖の清鑑を待つ。 松本泰(1887-1939) | |
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『美の誘惑』(本田緒生/大正11年) 呪われた真珠の行方はしばらく分からなくなっていたが、秋月が招待を受けた家で偶然に見つかった。 それは秋月よりも3つばかり年上の永井という男の細君である梅子の指に輝いていたのだ。 梅子は“鼻すぢの通った、口許の可愛らしい、目のぱっちりした”美人で、ふたりは誰もが羨む仲のカップルだった。 秋月はこの曰く付きの真珠について、永井に話すわけにもいかず、何も不吉なことが起こらないように祈るばかりだった。 しかし、そうした秋月の願いもむなしく事件が起きてしまう。梅子が毒殺されてしまったのだ。 牛乳に混入されたモルヒネが原因だった。 この事件に関係者として挙げられたのが、当の梅子と永井、女中のお花、そして牛乳配達夫だった。動機などの理由から自殺は考えられなかったので、梅子本人は外された。では、殺人犯は永井なのか、それともお花なのか、牛乳配達夫なのか。 調査が進むにつれて、ある重要なことが明らかになった。それは永井家の家計が実は火の車だったこと、そして梅子の名義で高額の保険がかけられていたことだった。一挙に永井が怪しくなる。そしてついに、永井が警察に逮捕されてしまった。永井が紙包みに入った薬を牛乳に入れているところを見たと、お花が警察に供述したのだ。 しかし、心から愛しているようにみえた細君を永井が本当に殺めたのだろうか。……。 話は、秋月が婚約者の百合子に手紙で事の成り行きを説明するという形で展開される。事件の真相を探ろうと東奔西走する秋月。そして、手紙の文面からある矛盾を見つけだす百合子。それにしても、警察は何をやっているんだ。 (2006.8.23/菅井ジエラ) 本田緒生(1900-1983) 名古屋出身。大正11年にあわぢ生名義で応募した「美の誘惑」が、雑誌「新趣味」の懸賞で二等に入選。第一作の「呪はれた真珠」が、同じく「新趣味」の懸賞で選外佳作となったのに続いての栄誉となる。その後、さまざまな雑誌に入選している。 | |
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『静物』(十一谷義三郎/大正11年11月) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 一 家を持つて間のない道助夫妻が何かしら退屈を感じ出して、小犬でも飼つて見たらなどと考へてる頃だつた、遠野がお祝ひにと云つて喙(くちばし)の紅い小鳥を使ひの者に持たせて寄来(よこ)してくれた。道助はその籠を縁先に吊しながら、此の友人のことをまだ一度も妻に話してなかつたのを思ひ出した。 「古くからの親友なんだ、好い人だよ。」と彼は妻に云つた。 「では一度お招(よ)びしたらどう。」と彼女が答へた。道助はすぐに同意した。彼女はその折りに食卓に並べる珈琲(コーヒー)茶碗や小皿のことなどに就て細々(こまごま)と彼に相談し初めた。 二三日して彼は郊外にある遠野の画室を訪ねた。明るい光線の満ちた部屋の中に、いつの間に成されたのか新しい制作が幾つも並べられてゐた。それを見てゐると道助は急に自分の影が薄れて行くやうな苛(いら)だたしさを覚えた。 十一谷義三郎(1897-1937) | |
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『戀と牢獄』(江口渙/大正12年2月) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 一 「俺はまさか尾行(つけ)られてゐるんぢやあるまいな」 松井はかう思ふと、又不安になつたので二度ほど注意深く後を振り返つた。然し、先刻橋の袂までものゝ四五町も追つて來た男の姿はもう見えない。 唯、電車の無くなつた眞夜中の街には、淡い夜霧にぼかされて圓く輪を描いた燈火の列が、浮き上るやうにほのかな光の珠を綴つてゐるばかりだ。無論ずつと向うの方には二三の人影は覺束なく動いてはゐる。然しそれも段々と遠のいて今にも消えて無くなりさうだ。彼は自分のあまりに神經質なのを嘲笑ひながらもほつとして又小刻みに歩き出した。 大都會の夜は薄い乳白色の霧に染められながら、段々と更けて行く、水蒸氣が冷々と肌に迫る闇を浴びて立ちすくんだ電柱の肌にも、末枯(うらがれ)かけた行路樹の葉にも、又硬く草履の裏に觸れる舗道の上にも、もの悲しげな、然し心地好く濡れた夜の色が、如何にもしつとり滲み出てゐる。幾月振りかで思ひがけなく大都會の夜の静寂に包まれた彼は、何かに甘えたいやうな微かな悲哀さへも感じるのであつた。 「こんな工合では折角の重大な計畫も、或はうまく行かないかも知れない」 ※著作権が存続中です。問題があれば削除します。(菅井ジエラ) 江口渙(1887-1975) | |
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『淫売婦』(葉山嘉樹/大正12年) 7月の蒸し暑い夕方、ひとりの船員が散歩道を歩いていると三人組の男に声をかけられる。 「若い者がするだけの楽しみを買う気はないか」。 金は持っているかと聞く相手に男はポケットに入っていたありったけの金を出してみせると、電車賃の10銭だけ残して全部まきあげられてしまう。そして彼は倉庫のような建物に案内される。建物の中は暗くて何も見えなかったが、目が慣れるに従って、人間の下半身のようなものが見えた。その時、三人組のひとりが口を切る。 「あそこへ行って見な。そしてお前の好きなようにしたがいいや」 ひとり残された彼は、その謎の物体に近づいていく。死体のようだがどうやらかすかに息をしているらしい。そこには22〜23歳の若い女性が全裸のまま仰向きに横たわっていた。彼女の周りは嘔吐物や黒い血痕でねばねばし、ひどい悪臭を放っている。彼はその時になって、三人組が言っていた「若い者が楽しむこと」の意味が初めて分かった。力のない声で「あまりひどいことをしないでね」と言う彼女。彼らは若い男をここに連れてきては、この女性を商売の道具にしているのだ。「俺は彼女を助けてあげなければいけない」。男はそう考え行動に移す。だがその時、彼女の口から意外な言葉を聞くのだった。 ブルジョア対プロレタリアの構図が鮮明に見える作品。読んでいて熱いものを感じる。プロレタリア文学って何?という人にも理屈抜きでぜひ読んでみてほしい。逮捕・投獄されながら数々の作品を残したプロレタリア作家たち。彼らは大正という時代が生み出した遺産だ。 (2003.9.30/菅井ジエラ) 葉山嘉樹(1894-1945) プロレタリア文学の代表作家といえる小林多喜二にも多大な影響を与えた作家。それまでのプロレタリア文学になかった独特な作風で、当時の文壇に旋風を巻き起こした。『淫売婦』の他、代表作に『海に生くる人々』『セメント樽の中の手紙』などがある。 | |
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『幸福の散布』(横光利一/大正12年) ある電車の中での話。 車内は私だけが一人立っているといった混み具合。私は吊革を持ったまま、辺りを見回すと、大男が一人いるのを見つけ驚いた。というのも、とてつもなく大きな男だったからだ。 体の幅が私たちの三人分はある。眼も馬ほどある。これは現実の世界とは到底思えない。私はそのうちに笑い出した。周りの乗客はといえば、みな一様にこの大男を無視するかのように眼をそむけていたが、私はつきあげてくるこの微笑をどうすることもできず、苦しみながら窓の外を眺めていた。すると、その男が私の顔をじろじろ眺め出し……。 電車の中で一瞬の時間を切り取って掌編に仕立てたものはいくつかあるが、なぜか微笑ましいものが多い。本作品もタイトルにあるように、読後に小さな幸福を運んでくれる。 (2006.8.21/菅井ジエラ) 横光利一(1898-1947) 福島県出身。「ナポレオンと田虫」「春は馬車に乗って」などすぐれた短編を数多く残している。代表作に『家族会議』『旅愁』など。 | |
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『死滅する村』(小川未明/大正12年) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 村の人達の中で、幾人、東の空を昇る太陽を手を合せて拝んだ者があつたか知れなかつた。 その時、町の教会へ行つている娘が、太陽を拝むことなんかは、野蛮だと言つて嗤(わら)つた。村の人々は、町へ行くたびによく塔の如く頂きの尖(とが)つて、青空に聳(そび)える三角形の建物を見た時に、ここに集る若い男女は、外国人からいろいろの新しき知識を授かるのだと思つた。 古い伝統的の考えから、コスモポリタンの思想には、たとえ心の一部では共鳴しても、遽(にわ)かに信じ切れないある蟠(わだかま)りを村の人々は、基督(キリスト)教に対して持つていた。それで、知識をば尊敬しても、感情から彼等に深くは馴染(なじ)まなかつた。 この村の一人の娘が、太陽を拝むことを野蛮だと言つて嗤つた時、年寄は、顔の色を変えたのであつた。 小川未明(1882-1961) | |
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『「ファイヤガン」』(徳田秋声/大正12年) 署長命令で、その署にいるすべての刑事が招集された。全市が大混乱に陥っている中、署長室に集まった刑事たちは何か重大事件でも起こったのかと署長の顔色を伺っていたが、それ以上にずっと署長と密談をしている老紳士は一体何者なのか気になっていた。それが署長の一言で破られる。 「處でこゝにゐられるのは理学博士の××さんだがね、…」 聞くと、○○大学に「ファイヤガン」と書かれた得体の知れぬものが落ちていたらしく、××博士曰く、これは大変恐ろしいものだという。それで、博士は実際に多くの刑事たちに実物を見てもらい、説明を聞いてもらった上で、しかるべき対応をとってほしいと警察にお願いに来ているらしかった。 その道の研究をしているという博士によれば、筒状でビール瓶よりも一回りほど太いこの物体は、ドイツの飛行船から投下され、ロンドンやパリの市民を震え上がらせた爆弾に似ているという。この爆弾は3000度の猛火で300メートルにわたり焼き尽くしてしまうものらしく、まったく同じものではないが同種のものなら危険極まりない。この非常時に、このような爆弾を使った暴動が起こると治安は維持できない。刑事たちは、全力を挙げて「ファイヤガン」の捜索に乗り出したのだが…。 大正12年9月1日に起こった関東大震災。14万人以上の死者・行方不明者を出した未曾有のできごとに社会が混乱する中、人々はどういった精神状態で生活を送っていたのかが垣間見られる。 (2007.3.30/菅井ジエラ) 徳田秋声(1871-1943) | |
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『スプリングコート』(牧野信一/大正13年1月) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 一 丘を隔てた海の上から、汽船の笛が鳴り渡つて来た。もう間もなくお午(ひる)だな――彼はさう思つただけで動かなかつた。いつもの通り彼は、まだこの上一時聞か二時間はうとうとして過す筈だつた。日が射してまぶしいもので、頭からすつぽりとかひまきを被つたまゝ凝(ぢつ)と小便を怺へてゐた。硝子戸も障子も惜し気なく明け放されて、蝉が盛んに鳴いてゐた。 「もう暫く眠つてやれ。」 彼は、たゞさう思つてゐた。 丁度彼の首と並行の何の飾りもない床の間には、雑誌ばかりが無茶苦茶に散らばつて、隅の方には脱ぎ棄てた儘の汚いコートが丸まつてゐた。 汽船の笛が、また鳴つた。子供の頃彼は、この笛の音では随分厭な思ひをした。写真だけでしか見知らない外国に居る父のことを想ひ出すのだつた。――その頃の遣瀬なかつた気持を、彼は現在でもはつきりと回想することが出来た。 彼は枕に顔を埋めて、つい此間もう少しで殴り合にさへならうとした位ゐ野蛮な口論をした父を思つた。 「ヤンキー爺!」 彼は、そんなに呟いて思はず苦笑した。肚では斯んなに軽蔑したり、また母や細君の前では一ツ端の度胸あり気な口を利くものゝ、いざ親父と対談の場合になると鼠のやうに縮みあがつてグウの音も出ないのである。 牧野信一(1896-1936) | |
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『呪われの家』(小酒井不木/大正13年) 大正13年6月2日の夜、東京の小石川で殺人事件が起こる。小石川区指ヶ谷町○○番地の坂の上で、「人殺しーい」という悲鳴が聞こえたので、付近の住人が驚いて外に出てみると、20歳ばかりの女が地面の上にうずくまって苦しみに喘いでおり、その後、間もなく息絶えてしまったのだ。近くの交番の巡査が警視庁に知らせると、ほどなく朝井刑事、警察医、写真班他、捜査陣が現場に到着。朝井刑事は懐中電灯で辺りを捜索していると、息絶えた女が死の間際に書いたと思われる文字が地面にしっかりと残っていた。カタカナで3文字。「ツノダ」。彼はその文字を写真に撮らせた。 一方、時を同じくして小石川でもう一つの事件が起こる。交番の巡査が夜中に町を巡回していると、向こうから誰かがやってくる。巡査は物陰に隠れ、この人物を観察していると、その者は何を思ったか、急に「人殺しーい」と叫んだ。巡査はその者を取り押さえ、交番に連行して調べてみると、左の袖に血痕が5つ6つ付いている。平岡貞蔵という名の、女のように色の白いやさ男だったが、どうしたのか尋ねても、恐ろしい男に追いかけられていたというばかりで血痕についてはまったく分からないの一点ばりだった。 明らかに関連性があると思われるが、どのようにつながっているのか皆目分からない2つの事件。殺された女と平岡とはどのような関係があるのか?女が残した「ツノダ」というダイイングメッセージは何を表しているのか?これらの事件の解決をすべく、“特等訊問法”の使い手として名高い警視庁警部霧原庄三郎が乗り出す。 日本におけるミステリー小説黎明期に活躍した、小酒井不木の探偵小説デビュー作。横溝正史しかり、江戸川乱歩しかり、昔のミステリーには“業”というものが物語の中に介在していて重厚感がある。 (2004.10.11/菅井ジエラ) 小酒井不木(1890-1929) 39歳という若さでこの世を去った夭逝の作家。東京大学医学部卒。医学博士という肩書きを持ち、探偵小説からSFものまで、医学の知識が存分に生かされた彼の作品群は異彩を放っている。代表作に『疑問の黒枠』『人工心臓』『恋愛曲線』など。 | |
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『頭ならびに腹』(横光利一/大正13年10月) 真昼のこと。 満員の客を乗せた特別急行列車は全速力で駆けていく。その乗客の中には小僧が1人。 彼は“窓枠を両手で叩きながら”大声で歌い出す。 「うちの嬶ア 福ぢやア ヨイヨイ、 福は福ぢやが、 お多福ぢや ヨイヨイ。」 笑いが起こる車内。なおも次から次と歌い続ける小僧。その後、他の乗客はだんだんと彼の相手をしなくなる。 そして車内が“退屈と眠気のために疲れていつた”頃、突然列車が止まった。 騒ぎ出す乗客。 「どうした!」 「何んだ!」 「何処だ!」 「衝突か!」 しばらくすると、車掌が現れ…。 ある日の車内の風景を、彼独特のタッチで描いた作品。 横光利一や川端康成(伊豆の踊子)をはじめ、岸田国士(第一幕)、中河与一(氷る舞踏場)など、この年に創刊した「文芸時代」に作品を寄せた作家たちは“新感覚派”と呼ばれた。(この作品は創刊号に掲載されている) 「頭ならびに腹」というタイトルは、中河与一の「刺繍せられたる野菜」などと並び、何とも新感覚派らしい。 (2007.10.4/菅井ジエラ) 横光利一(1898-1947) 福島県出身。「ナポレオンと田虫」「春は馬車に乗って」などすぐれた短編を数多く残している。代表作に『家族会議』『旅愁』など。 | |
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『結婚地獄』(津村京村/大正13年4月) (レビュー未/以下は小西書店・津村京村著『結婚地獄』の巻初に附された、著者による序文) 『結婚地獄』に就いて 初めから告白して了へば、この『結婚地獄』は私の自叙伝の一部である。それだけ、真剣であると同時に、一方芸術的立場から見て、当然、破綻の多からう事を危惧される作品である。然し私はその点に努めて注意し精進した。或る場面々々に現はれて来る現実の主人公たる自分の中へ、ともすると作者の自分までが惹きずり込まれて、危く作者自身までが、生な激情に失しやうとする様な事が屡々あつた。これは恐らく自分ばかりではなく、自伝的作物を書く場合、すべての作家がこの危険を経験するに違ひない。而してそれに陥るか陥らないかゞ、その作品の芸術的価値如何の分岐点となるのではないかと思ふ。 その意味に於て、私はこの『結婚地獄』を書くに当って、少なからず苦しんだ。殊に幸か、不幸か、最近、恰度この小説の中に取り入れた事件の事実に関して(と言ふよりも、私自身に対して、偶々その身辺に起つてゐる恋愛事件から、可なり神経過敏になつて居たらしいM氏が、某文芸雑誌上に、或る不快なことを書いた。それに対しては私もすぐ其当時或る新聞の文芸欄で、一応自分の立場を明らかにはして置いた。が、兎に角、この事が、好い意味にも悪い意味にも、この『結婚地獄』を書く作者の心の上に、可なり激しい刺激を与へた事は確かである。それが果してこの作品の上に、(勿論芸術的作品としての上に)幸福であつたか、不幸であつたか、は素より問題である。そして其れはこの作品を本当に正しく読んで下さる人々に依つてのみ、判断して貰へると思ふ。 それから附録につけた『踏み違へた路へ』は、強ち『結婚地獄』と連絡を持つてゐるわけではないが、然し作の主題から見て全然かけ離れたものでもないと思ふ。前者と合せて読んで貰へば、必ずより以上に何かを掴んで頂けると思つたから、敢てこゝに結びつける事にした。 十三年一月 郊外高田鶉山の寓居にて 京村生 津村京村(1893-1937) | |
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『新魔王』(藤井真澄/大正13年) 少し未来の話。その頃、世間では実業家の大川定助に関して良からぬ噂が立っていた。 米の値段が暴騰しているこの時期に、米を秘密裡に買い占めて私欲を貪っているというのだ。「人道の敵、正義の仇である“新しき魔王”は庶民の生活を貧窮させているが、この血も涙もない振る舞いにはすぐに制裁が下されるであろう」。新聞もこのような内容の記事を書いていた。 社会がこうした状況にあるためなのか、ある泥棒の一団が組織され、米の買い占めを働く悪魔から金品を強奪し、庶民に還元している。 大川はまだその被害に遭っていないが、この一団は「新大塩平八郎」と呼ばれていた。 大川の息子定夫は、こうした父の昔から私利私欲を追求する態度が許せず、家を出ていた。 また現在、大川の秘書を務める娘の秋子も父の頑固な態度に愛想をつかし、秘書役を辞することに決めているのだった。 その日、子爵で慈善事業家の月村清という名の男性が、池山という名の従者を連れて大川の元を訪れた。 月村は大川の持っている米を買い取って町に配りたいので、売ってくれないかというのだ。 値段交渉がうまくいき商談成立となった2人。しかし、あくまでも現金払いを主張する大川に、月村は池山を銀行に行かせ現金化させて戻ってくることを指示。 月村は残って池山が帰るのを待っていたが、そこに思わぬ来客があった。 「…俺たちは新大塩平八郎の一団だ! 天に代って手前達を征伐するのだ!…」 大川は有り金のほとんどを一団に取られてしまったのだが…。 すべての国民が住みよい理想の社会を作るには、どうすればよいのだろう。 『戯曲集 新魔王』(新潮社/大正13年)所収 「窟(四幕)」「窟を出て(五幕)」「孤独の底の日蓮(一幕)」「新魔王(一幕)」 (2007.11.11/菅井ジエラ) 藤井真澄(1889-1962) | |
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『注文の多い料理店』(宮沢賢治/大正13年) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 二人の若い紳士が、すつかりイギリスの兵隊のかたちをして、ぴか/\する鉄砲をかついで、白熊(しろくま)のやうな犬を二疋(ひき)つれて、だいぶ山奥の、木の葉のかさ/\したとこを、こんなことを云(い)ひながら、あるいてをりました。 「ぜんたい、こゝらの山は怪(け)しからんね。鳥も獣も一疋も居やがらん。なんでも構はないから、早くタンタアーンと、やつて見たいもんだなあ。」 「鹿(しか)の黄いろな横つ腹なんぞに、二三発お見舞まうしたら、ずゐぶん痛快だらうねえ。くる/\まはつて、それからどたつと倒れるだらうねえ。」 それはだいぶの山奥でした。案内してきた専門の鉄砲打ちも、ちよつとまごついて、どこかへ行つてしまつたくらゐの山奥でした。 それに、あんまり山が物凄(ものすご)いので、その白熊のやうな犬が、二疋いつしよにめまひを起して、しばらく吠(うな)つて、それから泡を吐いて死んでしまひました。 宮沢賢治(1896-1933) | |
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『職工と微笑』(松永延造/大正13年) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 序言 私は当時、単なる失職者に過ぎなかった。とは云え、私自身とは全体何んな特質を持った個体であったのか? 物の順序として、先ず其れから語り出されねばならない。 別段大きな特質を持たぬという点が私の特質であった故に、私は私自身に就いて、其れ程長い説明を此処で試みようとは思わない。正直と簡単とを尊重して、私は次の事丈を読者に告げ得れば、もうそれで満足である。 私は一時、小学校の教員であった。そして直きに免職となって了う事が出来た。何故免職となり得たか? 日本語の発音及び文典の改良策に就いてと、それから小児遊園地の設計に就いて校長と少し許り論争した結果、私自身が何かしら「思想」と言ったようなものを所持している事が発見されて了ったからである。実に其の思想がいけなかった。多くもない私の特性のホンの一部がいけなかったのである。断って置くが、私は何んな場合でも過激を遠慮する内気な人間の部類に属し、却って年老いた校長の方が進取的な気質に満ちて「堕落しても好いから、新しいもの!」と云う希求を旗印しに立てていたのであった。従って、此の場合では、世間に好くある新旧思想の衝突と云ったようなものが恰度逆の状態で醸成されたのである。 松永延造(1895-1938) | |
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『片方の心』(有島生馬/大正13年) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 一 博士、雨降つて地かたまるといふが、もう少し降らずにゐてくれた方がよかつた、電車で歸る方々に御氣の毒だつたね。 (戸外では雷雨の音がしきりに聞えてゐた) 鐡也、さうです、少し早く降り出し過ぎました。 (廣間に入りながら話合つて來た二人は、シルクハツトと外套とを卓の上に片よせてのせた。博士は奥の卓の前に坐つて、白手袋をぬぎながらいかにも満足相であつた。) 鐡也、今日は何から何まで御心配下さいまして、誠に有難うございました。……………厚く御禮を申上げます。 ※著作権が存続中です。問題があれば削除します。(菅井ジエラ) 『片方の心』(プラトン社/大正13年5月)所収 「片方の心」「地藏樣への大願」「眞晝の出來事」「神樣」「廢屋」「或る方角」「追放者」「心の壁」 有島生馬(1882-1974) | |
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『人間なるが故に』(沖野岩三郎/大正14年3月) (レビュー未/以下は大阪屋号書店・沖野岩三郎著『人間なるが故に』の巻初に附された、著者による序文) 最早禽獣ではない、しかし神でもない。人間である。この人間には、まだ、恐ろしい野獣の血が多量に残つてゐる。けれども一躍して神の世界を見ようとする希望の火が、其の心に断えず燃え上る。そこに本能と理想との猛烈な闘ひが始まる。其の闘ひを戦ひ得る所に人間の価値がある。 人間は如何に努力しても、直ちに全智全能の神となる事は出来ない。さりとてどんなに願つても、最早禽獣にまで復帰する事も出来ない。 斯うして獣性と神性との中間に立つ人性の一部分を書いてみたのが此の『人間なるが故に』である。つまり神にまで到達し得ない人のもつ、獣性と神性との闘争史である。 大正十四年二月。 瀬波にて 沖野岩三郎(1876-1956) | |
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『氷る舞踏場』(中河与一/大正14年4月) 場所はある北国の街。“冷酷な雪の化粧”に覆われ、街全体が凍り付くほど寒い夜。蕩児たちが“無礼な”舞踏会を催している。 “眼のさめるような贅をつくした毛皮につつまれた人、大地主である赤肥りのした貴族、知りあって間もない恋人同士、海豹の皮で成金になった野獣のやうな男、夫の刻苦した遺産を漁色生活に変化させてゐる未亡人……” 至る所でこれらの招待客たちが、楽士の奏でる音楽に合わせ踊り、会話を楽しんでいる。 「感激の無いのに愛情を装ってゐるのは罪悪だからな」 「さうよ、退屈したら別れる方がいいんですわ」 「なるほど、それはさうだ。初めて──と然し貴方の中にいろいろな女を見たからな」 「ぢや私の中の別の女と次の恋を初めて下さらないこと」 歓楽に酔う人々。たばこの煙に人の熱気、外界からまったく遮断されてしまっている邸内は暖房がききすぎて熱がこもっている。 誰もが、この熱気にフラフラになり、次第に狂気じみてきて……。 読んでいるうちに、吉行エイスケの諸作品が頭に浮かんだ。しかし、エイスケ作品には見られない話の結び方に斬新さを感じた。 (2006.7.19/菅井ジエラ) 中河与一(1897-1994) 大正13年10月、「文藝春秋」の同人たちとともに「文藝時代」の創刊に参加し、「刺繍せられたる野菜」「氷る舞踏場」などを発表。横光利一、川端康成、岸田国士らとともに誌面を賑わせ、新感覚派と呼ばれた。代表作の『天の夕顔』(昭和13年)は海外でも高い評価を受け、英語・フランス語など6カ国語に翻訳されている。 | |
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『D坂の殺人事件』(江戸川乱歩/大正14年) 9月初めのある蒸し暑い晩のこと。わたしはD坂にある白梅軒という行きつけのカフェで冷やしコーヒーを飲んでいた。下宿から近いのでよく立ち寄るのだが、その日もいつもの往来に面したテーブルに陣取っていた。 その白梅軒の真向かいに古本屋があるのだが、わたしはさっきからずっと店の方を眺めていた。というのも、最近この白梅軒で知り合った明智小五郎という名の、探偵小説好きの変わり者の幼なじみが、古本屋の女房になっているというのを、このあいだ彼から聞いたからだ。この女性がなかなかの美人で、夜は決まって彼女が店番をすると聞いていたのでさっきから捜していたのだ。それが二間半間口の手狭な店なのにも関わらず、誰もいない。よく見ると、店と奥の部屋の間にある障子がぴしゃりと閉められてある。寒い冬ならまだしも、蒸し暑い晩に、しかも万引きの被害に遭いやすい商売なのに。少し変な光景だった。 それから30分ほど経った頃だろうか。明智がやって来た。隣に腰掛けた彼は、わたしの視線の先にある光景に同じ印象を抱いたのか、少しも目をそらさず、じっと一点を見つめていた。 「きみも気づいているようですね」 明智が来てから30分も経っていないのに、その間に本泥棒が4人も来ている。それなのに、障子の向こうにいるはずの彼女が姿を現さないのだ。明智とわたしは店に行ってみることにした。 そして…。奥の間で発見したのは首を絞められ変わり果てた彼女の死体だった。……。 障子はずっと閉められたきりで、誰も出入りしていない。また、裏口からも誰かが出入りした形跡もない。 それでは一体、誰がどうやって彼女を絞殺したのか。 名探偵、明智小五郎登場! この作品により、日本ミステリ界に、また新たな1ページが作られたといっても過言ではない歴史的作品の1つである。 (2006.9.3/菅井ジエラ) 江戸川乱歩(1895-1965) | |
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『予審調書』(平林初之輔/大正15年1月) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 一 「あなたの御心配もよくお察ししますが、わたしの立場も少しは考えて頂かないと困ります。何しろ、規則は規則ですから、予審中に御子息に面会をお許しするわけにもゆきませんし、予審の内容を申し上げることも絶対にできないのですからねえ。こんなことは、私が申し上げるまでもなく十分おわかりになっているでしょうが……」 篠崎(しのざき)予審判事は、裁判官に特有の冷ややかな調子で、ここまで言って、ちょっと言葉をきって、そっぽをむきながら敷島(しきしま)に火をつけた。判事の表情が、今日は常よりも余計に冷ややかに、よそよそしく、まるで敵意を帯びているようにさえ見えるので、客は何となく底気味が悪いらしい。 「それは、もう、よくわかっておるのですが、どうもせがれの奴がかわいそうでしてね。あれはほんとうに近頃頭をどうかしているのですから、ついつまらんことを口走って、取り返しのつかんようなことになっては大変だと、それが心配になるものですから、こうして毎日のようにうるさくお邪魔にあがるような次第で……嫌疑が晴れて出て来たら、まあ当分海岸へでも転地さして、ゆっくり頭の養生をさせようと思っとるのです。どうも時々妙な発作を……」 平林初之輔(1892-1931) | |
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『伊豆の踊子』(川端康成/大正15年1〜2月) 主人公の学生は伊豆旅行の最中、踊子の一団と遭遇し旅を共にする。 踊子の一団は一組の夫婦を中心とした一座で、夫婦の亡くなった子供の供養の為に伊豆に訪れていたのだった。 主人公の学生は、踊子の一座を通じて女性の本能を垣間見て困惑しながらも、東京の帰路にたつさい、伊豆という土地にある種の郷愁を抱きながら踊子達との想い出に心が動かされるのだった。 (2003.8.1/A) 川端康成(1899-1972) 略歴の詳細は本誌内企画“川端康成を読む”ページを参照ください。 | |
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『死人の欲望』(片岡鐵兵/大正15年) 朝鮮の京城に転勤でやって来た高田仙吉の元に、一通の手紙が届いた。 それには以下のような内容が認めてあった。 『先日、死んだ妹からあなたはそちらで結婚したかどうかを聞いてほしいと頼まれている。至急返事がほしい』 送り主である多恵子の妹・久美子は、高田が神戸の高商の学生だった頃に許婚者同様だった女性で、高田は二人の家で間借りしていた。 高田はこの手紙に好奇心をあおられ、早速返事を書いた。 “…どうせ誰かと結婚しなくてはならないのですが、まだ幽霊を相手に選ぼうとは夢にも考へて居ないですから” 1週間後、高田は打ち合わせのために大阪の本店に出向かなくてはならなくなった。 そこで、ついでに神戸の多恵子を訪ねようと思った。 そして大阪出張の当日。本社での用件を済ませた高田は、その足で神戸へ。60何年ぶりとかの大雪が降ったその日の夕方、多恵子の家に着いた。 「…ねえ、今夜泊って下さる?妹のために?」 ニッコリと笑いながら聞いてくる多恵子に、黙ってうなずく高田。 こうして高田は、学生時代に過ごした懐かしい家で一夜を過ごすことになったのだが…。 怪奇色を漂わせながら、それでいて気品を失っていない。ミステリ要素も多分にあるが、あくまで一文芸作品として見た方が親しみやすいかもしれない。 (2006.8.25/菅井ジエラ) 片岡鐵兵(1894-1944) | |
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『友田と松永の話』(谷崎潤一郎/大正15年) それは、私が「しげ女」という見知らぬ女性から手紙をもらったのが発端だった。 作家という職業柄、知らない人間からもたくさん手紙をもらう。 普段は、それらの手紙をそのままにして忘れてしまうことも多いのだが、 「しげ女」の手紙は毛筆で書かれてあり、一見して普通の手紙ではないような印象を受けた。 そこで封を開けてみた。ずいぶんと長い手紙だったが、そこには次のような興味深いことが書かれていた。 「しげ女」は明治38年に松永家に嫁入り。当時、夫儀助は25歳、しげ女18歳。 結婚当初は仲むつまじく暮らしていたが、その翌年の明治39年、 「しげ女」が妊娠中の夏に、儀助は何を思ったか「1、2年洋行してくる」と言い、家を出て行った。 その後、儀助より松永家にはまったく音信がなかったが、明治42年の秋に突然海外から帰国。 儀助は海外で健康を害したようで、神経衰弱を患うようになっていた。 だが、45年春までの足かけ4年の間に、徐々に快方に向かった。 そして45年の夏。今度は何の理由もなしに、儀助はまた家を出ると言う。 「しげ女」は娘とともに、留守居を余儀なくされたが、また足かけ4年ぶりに大正4年の秋に儀助は帰ってきた。 そして、また足かけ4年の大正7年の夏。儀助は行方を言わずに出て行ってしまう。 今年は3年目なので、たぶん来年には帰ってくるのだろうが、 昨年冬より娘の体調がすぐれず、何とか夫に帰ってきてほしいというのだった。 では、なぜ私のところに、こうした手紙を送ってきたのか。それはこうした理由からだった。 前回、儀助が帰ってきた時、小さな鞄を手に持っていたが、ある日、しげ女は彼の目を盗んで、その鞄の中身を見たことがあった。 そこには、紫水晶の石をはめた男ものの指輪と、友田と刻された印形、葉書一枚、 そして外国人女性のいかがわしい写真数十枚が入っていたという。 そして、その葉書の差出人が私だったというのだ。 夫は行方をくらましている間に、友田と名乗り生活しているのではないか。だが、指輪の大きさを比べると儀助の指には太すぎる。 ただ、いずれにせよ、儀助は友田と付き合いがあったのではないか。そうして、すがる思いから手紙を寄越したのだった。 私は確かに友田という男を知っていた。2、3日前にも実際に友田に会っていた。 その時、「しげ女」が言う紫水晶の指輪を友田がはめているのを見た。 「しげ女」は、手紙に儀助の写真を同封していた。 私も写真を見るまで、しげ女と同じく「松永儀助=友田」と思っていたが、 写真を見ると二人はまるで別人だった。儀助は病的に痩せている一方、友田は太っている。 二人が同じ人間であろうはずがなかった。 そこで、私は事の真相を突き止めようと思った。……。 一時期、魔窟・上海を根城にし、大震災を境に、横浜などで暗躍する友田。私は事実を見つけだすことができるのか。 大正15年1月〜5月の「主婦の友」に連載された作品。 (2008.2.18/菅井ジエラ) 谷崎潤一郎(1886-1965) | |
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『失はれた書籍』(水守亀之助/大正15年) やっとの思いで長編小説『恋愛行』を書き上げ、その作品を自費出版することになったC君。その日はできあがった本1200部を、Aという製本屋に家まで届けてもらうことになっていたのだが、製本屋からC君の家に不思議な電話がかかってきた。 「車でひいて行かせてからもう四五時間も経つのに使の若者はまだ帰って来ませんが、品物はお届けしたでせうか」 電話はC君の妻が応対していたが、C君が妻からその話を聞くや、電話を代わって製本屋の主人を怒鳴りつけていた。 製本屋からC君の家まではわずか十四五町の距離。4時間も5時間もかかるはずがない。それなのにまだ到着しない。 つまり、できあがったばかりの1200部の本が忽然と消えてしまったのだ。 すぐに詫びにやってきた製本屋の主人がC君に説明するには、ふたりの雇い人が車をひいて出ていったという。だが、そのふたり自体がどこに行ってしまったのか皆目わからない。どこかで怪我をして医者に担ぎ込まれているのか。それなら車があるはずだし、車が見つかれば、本の奥付を見て製本屋になり、著者であるC君の家になりに連絡をしてくれるはず。それが全く何もない。結局、これは車をひいていったふたりが共謀して盗んだのだろうということになった。 しかし、1200部もの本をどうやって金に換えるのか。数が少なければ、古書店などに売り払うことも考えられるが、多くなると、売ってもすぐに足がついてしまう。C君は警察にも応援をお願いし、製本屋の主人にも捜索を命じた。……。 本の行方が一向に分からず、“これは、作家としての能力がまだ不足しているのだと、天が自分を戒めているのかもしれない”と弱音さえ吐くようになるC君。しかし、まだ店頭に並んでいないはずの『恋愛行』を激賞するファンレターがC君の手元に届き…。 着想や途中のストーリー展開は独創的で面白いが、最後が少々尻すぼみで残念。 (2006.8.24/菅井ジエラ) 水守亀之助(1886-1958) 兵庫県出身。雑誌「新潮」の記者を務めていた大正8年、雑誌「早稲田文学」に「小さな菜畑」を発表。注目を集める。代表作に「帰れる父」「闇を歩く」などがある。 | |
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『広告人形』(横溝正史/大正15年) 大海源六は醜悪な顔の三流画家。その醜悪な容貌から人に顔を見られると癲癇を起す特異な体質をもつ。 ところが、仕事柄人間観察が必要なので何とか人ごみの中に入りたいという希望から、大海源六はある考えを思いつく。 着ぐるみの中に入って宣伝を行う広告人形になれば、 誰も自分の醜悪な顔を見ることもないので思いのままに人間観察が出来るというものだった。 大海源六は浦島太郎の人形の中に入って映画会社のチラシを配ることで念願を適えるのだった。 大海が映画のチラシ配りの仕事を始めてしばらくすると、 大海源六が配っていた映画会社のチラシが波紋を呼ぶことになる。 映画のチラシにはタイトルである「俺が犯人だ」という文字が目立つように大きく書かれている。 そのチラシに言いがかりをつけて来た人間が大海源六の前に現れるのだ。 その人間は大海源六と同じように顔も見かけも判別することができなかった。 何故なら、その人物も福助人形の中に入って宣伝の仕事をしていたからだ。 福助人形の男は大海に対して隣町で起きた殺人事件の話をはじめた。その事件の窯人を探すために大海が 「俺が犯人だ」と書かれたチラシを配りながら人々の反応を見ているのだろうと福助人形の男は言う。 一方、大海は反論することもなく相手の出方を伺っていると、福助人形の男は通り過ぎていった女が映画チラシを 見て青ざめた表情をしていると大海源六に言う。その女は大海も知っているスナックに入っていった。 二人はその女が出てくるのを待ち、そして・・・福助人形と女の関係が明らかにされる。 (2006.6.26/A) 横溝正史(1902-1981) | |
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『オツベルと象』(宮沢賢治/大正15年) 宮沢賢治の童話の中でも群を抜いて短い話。 短い時間で童話でしか感じられないものを体験できる作品。 オツベルという稲の脱穀機を扱う男がいた。 村の百姓皆から勤勉さを褒められるほど、一日中休む間もなく脱穀機で仕事をしている。 村の外れの森から白い象がやってくる。 白い象はオツベルの工場の中にあがりこんでぼうっと眺める。 オツベルは勇気をふるって、白い象にゆっくりしていってくれと言う。 白い象は喜んだような反応を示す。 やがて、オツベルは白い象に仕事を手伝ってもらうようになる。 白い象は力持ちだから、何倍もの仕事をすることができた。 味をしめたオツベルは白い象に抱えきれないほどの重労働を強いていくのだった。 仕事の辛さに嘆いた白い象は逃げ出そうとするが、オツベルによって監禁されてしてしまうのだった。 (2006.7.22/A) 宮沢賢治(1896-1933) | |
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『苦力頭(クーリーがしら)の表情』(里村欣三/大正15年6月) (レビュー未/以下は作品の冒頭) ふと、目と目がカチ合った。――はッと思う隙もなく、女は白い歯をみせて、にっこり笑った。俺はまったく面喰(めんくら)って臆病に眼を伏せたが、咄嗟(とっさ)に思い返して眼をあけた。すると女は、美しい歯並からころげ落ちる微笑を、白い指さきに軽くうけてさッと俺に投げつけた。指の金が往来を越えて、五月の陽にピカリと躍った。 俺は苦笑して地ベタに視線をさけた。――街路樹の影が、午(ひる)さがりの陽ざしにくろぐろと落ちていた。石ころを二つ三つよごれた靴で蹴とばしているうちにしみじみ、 ――いい女だなア―― と、浮気ぽい根性がうず痒(かゆ)く動いて来た。眼をあげると、女はペンキの剥(は)げたドアにもたれて、凝(じ)っと媚を含んだ眼をこちらに向けていた。緑色のリボンで、ちぢれた髪を額から鉢巻のように結んだ、目の大きい、脊のスラリとした頬の紅い女であった。俺が顔をあげたのを知ると、女は笑って手招きした。俺はかぶりを振って、澄ました顔をした。すると女は怒って、やさしい拳骨を鼻の頭に翳(かざ)して睨めつけた。 青草を枕に寝転んでいた露西亜(ロシア)人が、俺の肩を肱(ひじ)で小突いて指で円い形をこしらえて、中指を動かしてみせた。そしてへ、へえ、へえと笑った。 ――よし! ―― と、俺は快活に、小半日もへタバッていた倉庫の空地から尻を払って起きあがった。そして灰のような埃を蹴たてて往来を横切った。俺の背中に、露人が草原から何か叫んで高く笑った。 女は近づいてみると、思ったよりフケて、眉を刷(は)いた眼元に小皺がよっていた。白い指に、あくどい金指輪の色が長い流浪の淫売生活を物語っているような気がした。女は笑って俺を抱いた。ペンキの剥げた粗末な木造の家であった。 里村欣三(1902-1945) | |
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『春は馬車に乗って』(横光利一/大正15年8月) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 海浜の松が凩(こがらし)に鳴り始めた。庭の片隅(かたすみ)で一叢(ひとむら)の小さなダリヤが縮んでいった。 彼は妻の寝ている寝台の傍(そば)から、泉水の中の鈍い亀の姿を眺(なが)めていた。亀が泳ぐと、水面から輝(て)り返された明るい水影が、乾いた石の上で揺れていた。 「まアね、あなた、あの松の葉がこの頃それは綺麗(きれい)に光るのよ」と妻は云った。 「お前は松の木を見ていたんだな」 「ええ」 「俺は亀を見てたんだ」 二人はまたそのまま黙り出そうとした。 「お前はそこで長い間寝ていて、お前の感想は、たった松の葉が美しく光ると云うことだけなのか」 「ええ、だって、あたし、もう何も考えないことにしているの」 「人間は何も考えないで寝ていられる筈(はず)がない」 「そりゃ考えることは考えるわ。あたし、早くよくなって、シャッシャッと井戸で洗濯(せんたく)がしたくってならないの」 「洗濯がしたい?」 彼はこの意想外の妻の慾望に笑い出した。 「お前はおかしな奴だね。俺(おれ)に長い間苦労をかけておいて、洗濯がしたいとは変った奴だ」 「でも、あんなに丈夫な時が羨(うらや)ましいの。あなたは不幸な方だわね」 「うむ」と彼は云った。 横光利一(1898-1947) 福島県出身。「ナポレオンと田虫」「春は馬車に乗って」などすぐれた短編を数多く残している。代表作に『家族会議』『旅愁』など。 | |
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『梁上の足』(若杉鳥子/大正15年10月) (レビュー未/以下は作品の冒頭) 昼間、街から持つて来た昂奮が、夜中私を睡らせなかつた。 おまけに、脳天を紛砕しさうな鋲締機の足踏みが、間断なく私の妄想の伴奏をした。 私が、骨組み許りのビルヂングの作業場の前を通りかゝると、其所には今しがた何か異変でもあつたと見えて、夥しい人間が集まつて急しく動作してゐた。多分検屍官でゞもあろう白い服を被た役人と巡査とを乗せたオートバイが、その前に止まると、今迄梁の上に上つてゐた黒い人影は、蜘蛛の子のやうに散つてしまつた。 すると、鉄骨と鉄骨との間に架した横木の上に、一人の労働者らしい人間が横たはつてゐる。往来の方へは蹠を向けてゐるので、その脛に捲きついた黒つぽい股引きの他は何も見る事は出来なかつた。 群衆は、残照に彩られたビルヂングを見上げながら、屍体の引き下ろされるのを待つてゐた。 若杉鳥子(1892-1937) | |
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※本企画の制作にあたっては、以下のHPサイトを参照させていただいております(順不同)。 ☆青空文庫 Aozora Bunko (http://www.aozora.gr.jp/) ☆ウラ・アオゾラブンコ (http://uraaozora.jpn.org/) |
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